● 彼女のいない家(2/2) ●

「ヴィトス、ねえヴィトス」
夢の中、彼女の声。夢の中だけでもいいから、彼女に触れる事ができたら。
「ねえヴィトスってば」
横になっているヴィトスの顔をのぞき込むユーディー。その顔と声があまりにも愛しくて、
彼女の細い腕をつかむと、自分の元へと引き寄せる。
「きゃっ、きゃああっ! 何するのよっ!」
不意を突かれ、ヴィトスの横に倒れ込んでしまったユーディーは頬を真っ赤に染めた。慌てて
起き上がるとベッドに座り、ぺちぺちとヴィトスの肩や背中を叩く。痛くもない刺激に、
徐々にヴィトスの意識がはっきりしてくるが、きっと目が覚めてしまえばユーディーの幻も
消えてしまうと思い、もう一度目を閉じて寝直そうとする。

「起きてよ、んもーっ、何よ、せっかくあたしが帰ってきたのに」
ユーディーはヴィトスが顔を埋めている枕の端をつかみ、それをずるずると引っ張った。
「起きて、起きてってば!」
少し怒ったユーディーは、ヴィトスの頬を親指と人差し指の先でつまむ。
「むに〜、ってしちゃうからね、もう」
「……」
頬に触れる指の感触。ユーディーの重さにわずかに沈んでいる、ベッドのスプリング。
「……君か」
「あたし以外の誰よ」
やっと目を開けたヴィトスに、ユーディーは頬をふくらませて見せた。

「ただいま」
それから、にっこりと微笑む。
「ああ、おかえり」
ヴィトスはゆっくりと身体を起こすと、呆けた声でそれだけ言うのがやっとだった。
「だめじゃない、お茶やりっ放しにしちゃ。て言うか、何あれ」
「お茶?」
ベッドの縁に座り直し、ゆっくりと頭を振る。ユーディーはぴょん、とベッドから飛び降りると、
座っているヴィトスの前に立ち、可愛らしく首をかしげた。
「キッチンに、お茶っ葉とかポットとか、出しっ放しだったわよ」
「ああ、そうだっけ」
ぼんやりと、眠る前の自分の行動が思い出されてくる。

「そんなにお茶が飲みたかったのね。だったらほら、じゃーんっ」
床に投げ出されていた、彼女がいつも持ち歩いている採取カゴ。その中を探り、銀色の筒を取り出す。
「新しいお茶、いっぱい買ってきたからね。あんな香りが飛んじゃったお茶は飲まなくていいから、
 美味しいお茶を飲みましょ」
ヴィトスの目の前に茶筒を持ってきて、フタを開ける。途端に部屋中に新鮮な花の香りが漂う。
「……またそれか」
「だって好きなんだもん。ヴィトスだって好きでしょ? だから、キッチンで淹れたんでしょ」
「淹れてないよ。調合してみただけだ」
「何それ、変なの。確かに濃すぎるみたいだし、飲めたもんじゃなさそうだったけどね〜」
くすくすと笑うと、銀紫色の髪が揺れる。

「淹れ直そうか、お茶」
「ああ」
彼女が、メッテルブルグとヴェルンへ行って買い物をしてくる、ほんの二週間足らず。たった
それだけの時間なのに、ヴィトスの心に重くのしかかってきた喪失感。
「よく、迷わないで家まで帰って来れたな」
「迷わないわよ。だって、あたしの家だもん」
そして、すぐに言い直す。
「あたしと、ヴィトスの家だもん。ねえ、お茶飲もうよ」
言ってから照れてしまったらしく、微妙にヴィトスから目線を外しながら彼の腕を引っ張る。
彼女の手、彼女の動きを感じていられる嬉しさの余り、ヴィトスは立ち上がると空いている方の
手でユーディーの身体を抱きしめた。

「あ……」
短くつぶやくと、ユーディーは自分から顔をヴィトスの胸に寄せる。
「えへ」
嬉しそうに微笑み、すりすりと頭をこすり付けた。
「ね、ヴィトス。あたしがいなくて寂しかった?」
「さあね」
とぼけてみせるが、ユーディーを抱く腕の力が、彼の気持ちを表しているようだった。
「あたしは、寂しかったよ」
「そうか」
このまま、彼女をどこへも行かせずに。自分の元に縛り付け、ずっと自分の声だけを聞き、
自分の姿だけを瞳に映すように。

頭と胸の奥に鈍い痛みを伴う錯覚さえ覚えるような独占欲が、衝動的にこみ上げてくる。
あまりの身勝手さ、自分の中に根付いていたらしい暗い感情の存在に驚いたヴィトスは、
それを払うようにゆるやかに首を振った。
「まあ、お茶が出てこないのは不便だったかな」
「何それ、お茶だけなの?」
「後はまあ、いろいろだが、どれも些末な事だ」
「うーっ、意地悪。ちょっとくらい寂しがってくれてもいいじゃない」
「寂しくなんかないさ」
口ではそう言っても、ユーディーを抱いている腕の力を緩める事ができない。
「ふんだ。じゃあ、今度お出かけする時は、一ヶ月くらい帰ってこないもんね」
ちらりと顔を上げ、上目遣いで可愛らしくヴィトスを睨む。

「君がそれでいいんだったら、僕はかまわないよ」
どうしても、思いと反対の言葉が口からこぼれてしまう。
「ふーん、そうなんだ。いいもん、ヴィトスの意地悪」
少し拗ねた顔になるユーディーは、彼の腕を離し、身をよじって抱擁から逃れようとする。
しかし、当然ヴィトスはそれを許さない。
「何よ、離してよ」
「そうはいかないよ」
「何でよ」
「何で、って言われても」
ユーディーは、ヴィトスの言葉の続きを期待して、彼の目を見つめた。

「……何でなんだろうな」
「え?」
「何で、僕はこんなに、君を放したくないんだろう」
「……」
思いの外、優しいヴィトスの目付きに、ユーディーは気持ちが緩んでしまう。
「それは、あれだよ。だって、あたしもヴィトスから離れたくないもん」
ゆっくりと、ヴィトスの腰に両手を回す。
「そうなのかい?」
「そうだよ。離れたくないって言うか、一緒にいたいって言うか。それが、ええとね……、
 好き、って事だと思うんだけど」
言ってから照れてしまったらしく、自分の表情を見られないようにヴィトスの胸に顔を埋める。

「ふうん、知らなかったなあ。君は僕の事が好きなんだ」
「またそういう事言う! 前から何度も言ってるし、ヴィトスだってあたしの事好きって
 言ってくれてるじゃない」
恥ずかしいのと、今更ながらお互いの気持ちを茶化そうとするヴィトスにちょっぴり腹が立つので
頬が熱くなってしまう。
「そうだったかねえ、よく覚えていないけれど」
「覚えてないならいいわよ、ばかっ」
拳を握り、ヴィトスの腰をぽん、と叩く。
「ヴィトスって、いっつもいっつもそうなんだから。意地悪」
それから身体をひねり、今度こそ彼の腕から逃げ出そうとする。

「もうお茶も淹れてあげないんだからね。ヴィトスは自分が淹れた、苦そうなお茶飲めば?」
「ああ、それは困るな」
「勝手に困ってればいいじゃない。べー、だっ」
舌を出して見せるユーディーの細いあごに指をかけ、軽く持ち上げるとヴィトスはそこに軽く
くちびるを合わせる。
「み、にゃ」
驚きの余り変な声を出したユーディーは、
「うにゃ」
勢い余って自分の舌を噛んでしまった。

「うっ……」
「何をやっているんだ、君は」
口元を両手で押さえ、ユーディーは涙目でヴィトスを見上げる。
「噛んだ。ヴィトスが変な事したから」
「別に、変な事なんてしていないよ」
「ううぅ……」
照れていいのか、怒っていいのか。どうしていいか分からずに、曖昧なうなり声を出す。
「うん、やっぱりユーディットがいない間は寂しかったな。こうやって君をからかっていないと、
 どうも調子が出ない」
こちょこちょとあごの下をくすぐってやろうとすると、
「もうっ、そんな風な寂しがり方されても、嬉しくないわよっ」
ユーディーは拗ねたように顔を背けた。
 ユーディーさんは、ヴィトスさんにいじられて(おもちゃにされて)るのがいいと思う。

 ユーディーは「離したくない」で、ヴィトスは「放したくない」なんですが。
 口に出してしまえば同じなんだけど、ちょっと違うみたいな。
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