● 彼女のいない家(1/2) ●
※今までのあらすじ
二百年後の世界に残る、と決めたユーディーは、ヴィトスにおうちを建ててもらい、
その家でヴィトスと一緒に住む事になりました。それからしばらく経って…。
(この話しは「03.幸せの行方(1/2)」の続きですが、前の話しは読まなくても別に平気です)
立て込んだ仕事が続いた為に、雑然と散らかってしまっている二階の執務室。書類の整理を
一通り終え、ヴィトスは机から顔を上げた。
「ふう。まあ、こんなもんかな」
ペンを脇に置き、たばねた書類をとんとん、と揃えて机に置き直す。イスから立ち上がり、
ドアへと向かう。
「丁度いい、そろそろお茶の時間だ。ユーディット……」
ドアを開けながら、執務室と同じく二階にある寝室、もしくは調合釜とキッチンがある階下に
向かって声をかけ、途中で口をつぐんだ。
「……何をやっているんだ、僕は」
それから、ゆっくりと頭を振る。
ユーディーがいなくなってもう十日余りが過ぎようとしているのに、未だに彼女がいない
状況に慣れない。
気分転換をしたい時にお茶が入る事もなければ、温かい食事が運ばれる事もない。楽しそうに
笑っているユーディーの声が聞こえる事もなければ、疲れたヴィトスの背中をそっとさすって
くれる、優しく小さな手の動きを感じる事もない。
「味気ないものだな、一人きりと言うのは」
ユーディーが、ヴィトスを置いて家を出て行くと言った時。これで自分の生活ができて
せいせいすると軽口を叩いてしまったのを、今更ながら後悔する。そんな言葉を聞いて、
わずかに曇ったユーディーの瞳。思えばあの時、ヴィトスに引き留めて欲しかったのだろう。
「まあ、僕が引き留めた所で、考えを変えるような娘じゃないが」
確かに、何もかもが自分のしたいようにできる一人きりの生活は楽だった。しかし、そう
思ったのもほんの最初の二、三日ほど。
気付くと、目で彼女の姿を探している自分がいる。彼女がここにいないのは分かり切っているのに。
「……全く。いれば騒がしいし、いないと味気ないし」
ヴィトスは重い足取りで階段を降りると、キッチンへ行き、自分でやかんに水を入れて火にかけた。
「お茶も出てこないなんて、何て不便なんだ」
ユーディーが家を出る前に、キッチンの棚はきれいに片付けられていた。
「第一、お茶の葉はどこにあるんだ」
何か飲みたいと思えば、そう言うだけで彼女が温かいお茶を運んできてくれた。考えれば、
この家に住んでから、ヴィトスは自分でお茶さえ淹れた事がなかった。
「それぐらい置いておいても良さそうな物なのに、全く気が利かない」
ぶつぶつと文句を言いながら、適当に棚の引き出しを開ける。
「おっ、これかな」
白い陶器のポットとカップ、その隣りにお茶の缶らしき物が見つかる。それには紙が貼ってあり、
ユーディーの丸く小さな字で『お茶』と簡単に書かれていた。
彼女はここにいないのに、彼女が残した字だけはいつまでも残っている。
そう思った瞬間、ヴィトスの心の底から、苦く暗い感情がこみ上げてきた。ヴィトスは口元を
手で押さえると、その感情を止めようとくちびるを噛む。
やがて、やかんから立ち上る、しゅんしゅんと言う蒸気の音に気付き、火を止める。
「立ちくらみかな。ずっと根を詰めていたから」
感情の起伏を体調不良のせいにしてから、ヴィトスはお茶の缶を開けた。途端に嗅ぎ慣れた
花の香りが漂い、ヴィトスは顔をしかめる。
「これか。他に無いのか、お茶は」
ユーディーの好きな、柑橘系の花の香りのお茶。正直、ヴィトスはあまり好きではなかったが、
彼女はこのお茶をヴィトスに飲ませたがった。
『あたしが好きな物はヴィトスにも好きになってもらいたいの!』
そう言いながら、レモンを入れたり、ミルクを入れたり。暑い夏には冷やしてみたりと、
何度も飲まされているうちに口が慣れて、不快には感じなくなってきた。
しかし、彼女がいない今、彼女の好きなお茶を一人きりで飲むのはあまりいい気分ではない。
ヴィトスはもう少し棚を探してみたが、他にお茶が入っているとおぼしい缶は見つからなかった。
缶の底にあまり残っていない茶葉を見て、
「そう言えば、もうこのお茶を飲む事もない、とユーディットは言っていたな」
また彼女の口調、ちょっとした仕草を思い出してしまう。
「だったら、何も残しておかなくても。家を出る前に全部捨ててしまえば良かったのに」
実際、今ヴィトスがお茶を飲みたい気持ちになっているからには、そのお茶は残されていて
良かったのかもしれないが。
複雑な気持ちを抱えたまま、ヴィトスは残っている葉を全てポットに振り入れた。真っ白い
ポットの底に落ちる黒くねじれた葉には、所々に淡い黄色や紫色の花びらが混じっている。
そこにお湯を注ぐと、茶葉と花びらはゆるやかに広がりながらくるくると回る。何となくそれを
見ていたくない気がして、ヴィトスはすぐにポットのフタを閉めた。
片手にお茶の入ったポット、もう片方の手にカップを持ち、テーブルまで歩いていく。
テーブルにポットとカップを置き、ヴィトスはイスに腰かけた。
「やれやれ、だな」
カップにお茶を注ごうと思ったが、確かお湯を入れた後、数分蒸らすだの何だの、と彼女が
言っていたのを思い出し、もうしばらく置いていく事にする。
その後、ヴィトスは思い出したように立ち上がり、キッチンの窓を開けようとした。彼女の
趣味で選んだ白いレースのカーテンに手をかけ、そこで動きが止まる。
もし、今窓を開けてしまったら。
この家の中の空気、彼女と一緒に過ごしてきた時間まで外に流れていってしまうかもしれない。
「……何を考えているんだ、僕は」
たまたま、一時的に感傷的な気分が沸いてきたに過ぎない。それは分かっているのに、ヴィトスは
どうしても窓に触れる事ができなかった。
「少し寒気がする。風邪を引いたのかもしれないから、窓は開けない方がいいだろう」
自分に納得させるかのように言い訳が続く。もちろん、白々しく嘘くさい言葉をいくら並べた所で
ヴィトスの気持ちが収まる訳でもないが、それでも何もないよりは、はるかにましだった。
ゆっくりとイスに戻り、そこに座って深いため息を吐く。
「もうそろそろかな」
ポットを手にとって、カップの上でゆるやかに傾ける。
「……?」
こぽこぽ、と濃い色のお茶が流れ落ち、同時にお湯に蒸された、きつすぎる香りが立ち上った。
「何だ、これは」
カップに注がれた真っ黒い色のお茶。その中には大量の黒い茶葉と、花びらが舞っている。
「葉を入れすぎたのか。それと、茶こしを」
茶こしの存在を今まですっかり忘れていたうかつさに、小さく舌打ちをする。
「それにしても、これは」
とても飲めたものではなさそうな液体ができあがってしまい、もう一度頭を振る。
「僕は、ユーディットがいないとまともにお茶も飲めないのか」
目を閉じ、彼女の顔を思い浮かべる。笑っている顔、怒った顔。ヴィトスが彼女をからかった後、
頬を赤くして拗ねている、照れの混じった表情。
「参ったな」
テーブルに肘をつき、手を組んでそこにあごを乗せる。
お茶が飲めないだけではない。ユーディーがいないだけで、こんなにも気持ちが乱れるとは。
「ユーディット」
声に出して彼女の名を呼んでみる。もちろん、返事も、彼の名を呼ぶ声も聞こえない。
「君がいないと、僕は」
彼女がどれだけ大切か分かっていたつもりなのに。彼女がいないと言う現実を突きつけられ、
”分かっていたつもり”と、”実際に感じる”と言う間にどれだけの隔たりがあったか、
始めて理解したような気がする。
「何だか、疲れた」
カップに口も付けず、ヴィトスはイスから立ち上がるとキッチンを出た。二階へ上がる階段へ
向かう途中、火の入っていない調合釜が視線の隅をかすめる。
「……」
今、彼女の思いが残る物を見たくない。そう考えた次の瞬間、愕然とした気持ちで自分の両腕を
上げる。何度も、何度も、ユーディーの細い身体を抱きしめた腕。長くしなやかな髪を梳いた指。
「……参ったな」
自分の肉体にさえ、彼女が染み込んでいる。
「本当に、参った」
これ以上何も考えないように、頭の中が真っ白になっていると思い込みながらのろのろと
階段を上り、寝室のドアを開けてベッドにうつぶせに倒れ込む。
きっと、彼女を考えていたら眠れない、そう思いながら目を閉じたヴィトスに、意外にも早く
赦されるような睡眠の闇が訪れた。
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