● メル姉さんのお悩み相談(1/2) ●
「す、すみません。メルさん、あのう……」
「あら、どうしたの? ユーディット」
メッテルブルグ中央広場から少し外れた所にあるオープンカフェには、真っ白な椅子、端に
きれいな花模様の刺繍の入っている清潔感のあるクロスのかかったテーブルが置かれている。
そこに座ってお気に入りのお茶を飲みながらゆったりと本を読んでいたメルは、消極的な
ユーディーの声に顔を上げた。
「あの、本を読んでる時にお邪魔してすみません。でも、あの……」
いつもだったらにこにこと元気いっぱいに声をかけてくるユーディー。そんな彼女が肩を落とし、
指をつつき合わせ、自信無さそうにこちらをうかがっている。
「かまわないわよ。それよりどうしたの? ユーディット」
二百年前の世界からやって来たなどと、とても信じられないような事を話すユーディー。しかし、
旅に採取にと行動しているうちに、メルはユーディーの事をとても可愛く思うようになっていた。
メルの剣の腕と判断力を信頼し、モンスターとの戦闘の時には的確にサポートをしてくれる。
普段おしゃべりをしている時でも、良く笑うユーディーのそばにいるだけで自分まで明るい
気持ちになってくる。
『リサの女神』と呼ばれ、自分の虚像を崇め奉られて困惑し続けていたメル。そんなメルを、
ユーディーは色眼鏡に曇る事無い真っ直ぐな瞳で、一人の女性、一人の人間として見つめてくれた。
最近では自分を慕ってくる彼女を、まるで本当の妹のように思っている。そんなユーディーの
しょんぼりとした様子を目の当たりにして、メルは落ち着かない気分になってしまう。
「ええと、あの、あたし、メルさんに相談したい事があって。あ、でももし忙しかったら
今度でもいいんですけど、お話しだけでも聞いてもらえたらな、って思って」
頬をわずかに赤く染めているユーディーの言葉はどこか歯切れが悪い。
「分かったわ。ところで、お話しを聞くのはここでもいいかしら、それともあまり他人には
聞かれたくない内容かしら?」
読みかけの本にしおりをはさみ、ぱたんと閉じた。
「ど、どうもすみません。ああ、良かった……」
メルの返事を聞いて、ユーディーは明らかにほっとした様子を見せる。
「できればここじゃなくて、あの、あたしの部屋とかの方がいいんですけど、そこまで来て
もらってもいいですか?」
「ええ、それじゃお邪魔させて頂くわ」
にっこりと笑いながら立ち上がったメルを見て、ユーディーはやっと笑顔になる。
(可愛いわね、本当に)
妹に頼られる姉。そんなポジションも悪くないな、とメルは思った。
二人で黒猫亭に入ると、
「やあ、ユーディット」
酒場の奥のカウンターにもたれていたアデルベルトがユーディーの姿を見て挨拶をした。
「あ」
声がした方を向いたユーディーは、たちまち頬を赤く染める。
「あ、えと、その……、や、どうも」
不明瞭な返事をもごもごとつぶやくとアデルベルトに背を向ける。ユーディーはいきなり
メルの手を取り、二階へと続く階段へと早足で向かう。
「ユ、ユーディット、どうしたの?」
急に腕を引っ張られ、メルは少し身体のバランスを崩しそうになってしまう。
「えと、あの、何でもないです」
顔を伏せ、慌てた様子のユーディーは、とても何でもないようには見えない。
階段を上りながらメルがちらりと後ろを振り向くと、挨拶の言葉と同時に上げてしまった手を
所在なさげに持てあましているアデルベルトが何か言いたげな顔でこちらを見つめていた。
「ユーディット、アデルベルトはあなたに用事があるんじゃないの?」
「いえ、いいんです」
決してアデルベルトの方を振り返ろうとしないユーディー。
(アデルベルトとケンカでもしたのかしら。それの相談?)
ユーディーに引きずられながら、メルはぼんやりと考えていた。
黒猫亭の二階にあるユーディーの工房は、きれいな真っ白い壁、明るい色のカーテンがかけられた
居心地のいい部屋だった。居心地が良すぎるあまり、ユーディーの他に幽霊が一人住み着いている。
「今日はパメラは?」
「お散歩に行ってます。あ、椅子、どうぞ」
そばにあるテーブルに持っていた本を置いてから、すすめられた椅子に座ろうとした瞬間、
「あのっ! メルさんって、キスした事あります?」
いきなりとんでもない事を聞かれ、椅子に座り損ないそうになってしまう。
「……えっ?」
椅子に座り直してから顔を上げ、まじまじとユーディーの顔を見つめる。
「と、突然すみません、でもこういうの相談できそうなの、メルさんしか思いつかなくて」
ラステルとクリスタは誰かと付き合った事は無いようだし、パメラは良く分からないし。
だからと言ってヘルミーナさんには怖くて聞けないし、男の人には話しづらいし。
そう一気にまくし立ててからユーディーはやっと息をつく。
「え、ええと……、キス。キス、ねえ。まあ、そうね」
「ああ、良かった。やっぱり、メルさんって美人だし素敵だし魅力的だし、そういう、
男の人とのお付き合いって言うか、そういうのありますよね、それで」
面と向かって誉められ、メルは少し照れくさくなってしまう。
ユーディーは自分が椅子に座るのも忘れ、立ったままで興奮気味に手をぱたぱたと振った。
「あのですね、あの、あたし、こ、恋人って言うか……、かっ、彼氏って言うのかな?
そういう人ができて」
かなり恥ずかしいらしく、ユーディーの声はところどころでひっくり返ってしまう。
「彼氏の事で困ってるって言うか、あ、困ってるって言っても悪い意味とかじゃなくて、
彼はまあ多少運が悪くておっちょこちょいなとこもあったりするけど、でもとても
いい人なんですけど」
「……アデルベルト?」
「えっ? な、何で知ってるんですか!?」
メルがぽつりとつぶやいた名前、それを聞いてユーディーは驚いて大声を上げる。
「知ってるも何も、さっき黒猫亭にいたアデルベルトと、彼を見たあなたの様子がおかしかったから
当てずっぽうに言ってみただけよ」
「あ……っ、ああぁ」
頬を更に赤く染め、ユーディーは消えそうな声を出した。
(可愛いわね、本当に)
ばたばたと落ち着きなく、照れて焦ってしまうユーディー。そんなユーディーを見ていると、
自然に笑みがこぼれてしまう。
「それで、その彼氏がどうかしたの? 彼氏とケンカでもしたのかしら?」
小さな子をあやすような優しい口調。その声を聞いて、ユーディーはとても安心したようだった。
「いえ、ケンカ……とかじゃなくてですね。あの」
座っているメルに近付く。背をかがめてメルの耳元に口を寄せ、更に内緒話をする時のように
自分の口元に手を当てる。
「キ、キ、キ……」
ごにょごにょ、と語尾が口の中にこもって聞こえない。
「なあに? 分からないわ、ユーディット」
「あっ、あのですね! キッ、キス……をしたい、って言われちゃったんです」
きゃああ、と小さな悲鳴を上げながら、自分の顔を両手で覆っていやいやをする。
「でも、あたし怖くて、その時やだって言ってアデルベルトの前から逃げちゃったんです。
それからアデルベルトと顔を合わせづらくて」
それで部屋に入っていきなりの質問につながるのか、とメルはようやく納得した。
「や、やっぱり、その……、キスとかって、しなきゃダメですかね?」
おずおずとメルに尋ねる。
「そうねえ、しなきゃダメ、って事は無いと思うけど」
メルの言葉に、ユーディーは真剣に頷いている。
「じゃあ、しなくてもいいんでしょうか」
「ユーディットは、どうなの?」
「どうなの、って?」
質問の意味が分からずに、ユーディーは首をかしげた。
「あなた自身は、アデルベルトとキスをしたいって思っているのかしら、どうかしら、って事よ」
「うっ、そっ、それは」
「あなたがどうしても嫌だと言うんなら仕方がないとは思うけど。どうなのかしら?」
「それは……」
口元に手を当て、もじもじしている。
「い、嫌だ……って訳じゃないんだとは思います、多分」
自分の事を語るのに、まるで他人事の様な話し方をする。それだけユーディーは自分の気持ちに
戸惑い、自信が持てないでいるのだろう。
「でも、キスって、していいのかどうか分からないし、した事無いから怖いし、アデルベルトと
正面向き合っちゃうと恥ずかしくなって、つい逃げたくなっちゃうんです」
「したければしてもいいと思うわよ、そんなに難しく考えなくても」
ふいにメルは椅子から立ち上がった。
「ああっ、ごめんなさい、つまらない話しをして」
「えっ?」
「でも、お話し聞いてくれただけでもとても嬉しかったです。ありがとうございました」
メルに向かってぺこり、と頭を下げ、ユーディーはドアの方へ向かう。
「ユーディット、私、帰らないわよ」
ユーディーがドアノブを掴んだ所で、メルが声をかけた。
「えっ? あっ、あああ、てっきりあたしの話しがつまらないからお帰りになるのかと」
慌てているユーディーを見て、メルはくすくすと笑い出した。
「普段は元気なユーディットでも、好きな人の話しになるとこんなにメロメロになっちゃうのね」
「メロメロって、そんな」
確かに否定はできずに、ユーディーはただ顔を赤くしている。
「こっちへいらっしゃい。少し練習してみましょ」
ちょいちょい、と手招きすると、ユーディーはメルの前に帰ってきた。
「練習、って」
「ユーディットはアデルベルトの事が好きで、キスしたいと思っているのよね?」
「えっ!? あ、あうぅ……」
赤くなっている頬を更に赤くする。
「違うのかしら」
「ち……、違いません……、でも、そんなにはっきり言わなくても」
恥ずかしさのあまり、ユーディーの瞳には涙が滲んでいた。
メルは時たま、アデルベルトがユーディーをからかって遊んでいる所を見た事があった。
(なるほど、これは面白いわね)
何か言うたびに楽しい反応が返ってくる。涙目になっているユーディーは可愛らしく、その気が
なくてもついついいじめたくなってしまう。
「でも練習……って?」
「キスの練習。練習って言ってもほんのまねごとよ、本当にキスする訳じゃないわ」
メルはユーディーの正面に立つ。それから、ユーディーの肩に手を置いた。
「練習……」
不思議そうな顔をしているユーディーの頬をそっとなで、また手を肩に戻す。
「平気ね?」
「はい」
何が平気なのか分からないが、とりあえず頷く。
「じゃあ、目を閉じてみて。私の手がアデルベルトの手だと思うのよ」
言われるままにユーディーは目を閉じた。
「正面にいるのは、私じゃなくてアデルベルト。そしてこれは、アデルベルトの手よ」
しばらく黙って、ユーディーの頭の中にイメージが固まるまで少し時間を与える。それから、
先ほどと同じように、メルはユーディーの頬を指先でくすぐった。
「きゃっ!」
途端にユーディーの身体が、びくり、と跳ねる。
「やっ」
どん、とメルを突き飛ばし、数歩後ろに飛び退いた。
「……あ、あっ、ごめんなさい!」
飛び退いた瞬間、目の前にいるのはメルだと思い出す。