● 忘れ物(1/2) ●
「賑やかな、娘だったな」
ヴェルンの側の、南東街道。街道と言っても名ばかりの、でこぼこした道を歩きながら
ヴィトスはつぶやいた。
(世間知らずと言うか、お人好しと言うか)
道すがら、赤い服、薄い銀紫色の長い髪を思い出す。
(まあ、かなり稼がせて頂いたからあまり悪口は言えないが)
ユーディーが、彼女の世界へ帰ってから、だいたい二ヶ月が過ぎようとしていた。気が付くと
ヴィトスは、彼女の事ばかり考えている。
(二百年前から来た、だなんて。ずいぶんな無茶を言う娘だと思ったが)
初めて会った時。不自然な荒れ地にぽつん、と建っていたあばら屋から飛び出して来た彼女を
思い起こす。色鮮やかなオウムを肩に乗せた彼女は突拍子もない話しをしたが、別に信じるとか
信じないではなく、ただ単純に事実なんだろう、と素直に理解してしまった自分に改めて驚く。
(本当に、あんな無茶な話しをねえ)
しかし、話しを理解するのと、その話しを受け止めるのとは違う。
ユーディーが住んでいたのは二百年前の世界だ、そしてその世界へ帰る、と言うならそれは
事実なのだろう。
だが、ユーディーが自分の手の届かない場所へ行ってしまうのを望んでいない自分がいた。
(それにしても、あれだけ世話をしてやったのに、恩知らずと言うのはああいう人間の事を
言うのだろうな)
ユーディーが元の世界へ帰る日、ヴェルンの街外れから続く採取場の更に奥まった場所。
普通の人が立ち入る事のない、不思議な魔法陣が刻まれた岩の上で、竜の砂時計を天にかざし、
それきり彼女は消えてしまった、らしい。
(僕に挨拶の一言もなく、別れの日を知らせる事もせずに)
ユーディーが帰ってしまった、と知らされたのは、それから半月程後の事だった。メッテルブルグの
黒猫亭、いつもいる筈のユーディーの姿が見えない事に不信を抱き、彼女といつも一緒にいた
クリスタに問いただした所、
『あんたには知らせるな、って言われてたんだ』
目を真っ赤にしながら小さな声で返事をした。
言われてみれば、思い当たる節はいくつもあった。街を行き来するユーディーをいつも待っていた
ラステルや、ユーディーが雇っている冒険者の姿がどこにも見えなかった。酒場のカウンターに
ユーディーが依頼の品を届けに来る事も、食料品店や薬屋に彼女が作ったアイテムが新規に
登録される事もなかった。
(僕には別れを告げる義理すら感じていなかった、って所かな)
あれだけ無茶な貸付や取り立てをしていたのだから、仕方がないのかな、とも思うが。
(それにしても、少しくらいは何かあって然るべきだろう)
ユーディーがいなくなる何日か前、ヴィトスは彼女の護衛を解雇された。ユーディーがこの世界に
来て、ヴェルンに宿の手配をしてから、ヴィトスは彼女の護衛として、ずっと彼女のそばにいた。
なぜ急に解雇されたのか、その時は理由が分からなかったが。
(まあ、今でも分からないと言えば分からないが)
過去に帰る事を、自分に伝えたくなかったのだろう。だが、なんで伝えたくなかったのかが分からない。
彼女なりの気まぐれだったのかな、とも思うが、そんな単純な理由で納得できない程、ヴィトスの
気持ちは混乱していた。
彼女が帰ってしまった、と聞いて、最初は信じられなかった。趣味の悪い冗談で、ヴィトスを始め
いろいろな人を騙しているのだろう、とも考えてみた。しかし、ユーディーの周りにいた人の
哀しそうな表情を見るたび、信じたくない現実を受け止めざるを得なくなっていた。
(現実としては認めているのに、それを受け入れたくない、とは)
あまりに合理的でない、自分らしくない考え。
ユーディーを目の前にしていた時、彼女の事を考える時に心の中にじわりとこみ上げて来る感情。
(僕は、なんでこんなに彼女の事が気にかかるんだろう)
何の変哲もない、とはとても言い切れないが、まあ普通と言えば普通の少女が一人、目の前に
現れて、そしていなくなっただけだ。
ただ、それだけの事なのに。
(今更、何を考えているのやら。自分で自分が分からないな)
手に入らない、と分かった瞬間、そのおもちゃを欲しがって駄々をこねるような子供でもあるまいに。
ユーディーは、二度とここへは戻ってこないだろう。
そう何度も何度も、自分に繰り返し言い聞かせている。それでもどこかで、何かの間違いでも
いいから彼女の顔を見たい、声を聞きたいと望んでいる自分がいる。
(もっと借金を増やして、どこにも逃げられないようにがんじがらめに縛り付けて。その借金を
ネタに、無理矢理にでも僕の言う事を聞かせてしまえば良かったかな)
そんな非現実的な空想に浸る事もある。全く自分らしくない。
(実際には、彼女の手にさえ触れた事はなかったのにな)
彼女への想いは断ち切らなければ。理性では分かっているのだけれど、感情は抑えようがない。
(決して手に入れられない物を欲しがっても仕方ないだろう)
街のあちらこちら、いたる所に彼女の思い出が残っている。思い出を見つけてしまう度に、
心の奥に傷ができて、そこから血が噴き出すような気さえする。
(ユーディット)
いつの間にか、ゆっくりと陽は落ち始めていた。
今歩いているこの道も、彼女と歩いた道だった。ヴェルンへと続く道、初めて会った彼女と、
全く噛み合わない話しをしながら。
(もう一度、会えたら)
叶わない夢だとは知りながら、願わずにはいられない。
「ユーディット」
目を閉じ、小さく口に出してみる。まぶたの奥に、笑っている彼女の姿が鮮明に浮かぶ。
(もう一度だけでいいんだ)
その時、ぼん、と爆発音が響いた。
「……?」
ずっと前に、聞いた事があるような音。
(なんだ?)
思うより先に、音の方向、ユーディーと初めて会ったあばら屋の方へと、身体が勝手に走り出している。
(勘違いだ、そんな事がある筈ない)
ごろごろと落ちている石ころに足を取られないように、一目散に走っていく。
(確か……あの時も、こんな爆発音が……、でも、そんな筈は)
息を切らして全力で走っても、どうせあのあばら屋には何もないに違いない。
期待して、その期待を裏切られて、また心の中で血を流す。
それでも、期待せずにはいられない。
(ユーディット)
目に入る汗を、袖で乱暴に拭う。生い茂る草を踏みしめ、獣道に近いような道を駆け上る。
(一度だけ、なんて嫌だ)
あばら屋に着いて、古ぼけた建物の中に誰もいない事を確認したら、肩を落としてとぼとぼと
道を下るはめになるのだろう。自分のそんな姿が目に見えるようだが、足は止まらない。
(僕は、ずっと君と)
ずきずき、と胸が痛む。痛んでいるのは心臓なのか、彼女を焦がれ続けて破れそうな心なのか。
あばら屋が見えてくる。扉は昔、ユーディーが内側から壊していたが、その後盗賊が住み着いたり
子供が迷い込んだりするといけないという理由で厚い板が何重にも打ち付けられていた。
やっと足を止めたヴィトスが肩で荒い息をしていると、もう一度、ぼん、という音が響く。
小屋の中から。
(まさか……、でも、お願いだ、頼むから)
更に大きい爆発音と共に、ドアが砕ける。
「もうっ、何なのよ、この板。クラフト三つも使っちゃったじゃない」
中から、ずっと耳の中に残っていた、聞き間違いようがない声。
「バクダン、ヨワイ、ヨワイ!」
「うるさいわねっ、たまたま湿気ってただけよ! さて、取りあえずヴェルンに向かって、
それからメッテルブルグへ……けほ、けほ」
舞った埃の中で咳をしながら、少女が破れたドアを出てくる。
「……ヴィトス?」
踏み出した途端、額に汗をかいてたたずんでいるヴィトスを見つけて目を丸くする。
「ああ、突然人が出てくるとは、驚いたな」
そばに生えている大きな木に手をつき、息を切らしながらもヴィトスは平然さを装う。
「あたしも、ここへ来てすぐあんたに会えるなんて。……驚いたわ」
肩にオウムを乗せたユーディーは、少しだけ大人びて見えるような気がする。
「金貸シ、ヴィトス、ヴィトス!」
オウムがパタパタ、と羽根をばたつかせる。
「やあ、フィンク。やあ、ユーディット」
未だに、自分の目の前にいる彼女の存在が信じられない。こんな偶然に、こんな風に出会えるなんて。
「なんで、こんな所にいるの?」
「それはこっちの台詞だな。君こそ、なんでここにいるんだい? 僕は、爆発音が聞こえて
気になったから来てみたんだ。君がまた、オオカミのエサになっていてもいけないし」
しごくもっともなユーディーの質問に強がってみせる。
「あたしがいつ、オオカミのエサになったのよ」
ユーディーの声は少しだけ震えている。
「君こそ何でここへ? 忘れ物でもしたのかい?」
言いたい事はそんな事じゃない。それなのに、彼女を見ると肝心な事を言えなくなってしまう。
「忘れ物……まあ、そんな所かしらね」
「ユーディット、ヴィトスニ会エテ、良カッタ、嬉シイ!」
「うるさいわね」
なぜか興奮気味のフィンクをいなして、ユーディーがヴィトスに近づいてくる。
「忘れ物くらいで簡単に戻ってくるなんて。本当に君はうっかり屋と言おうか、何と言おうか」
嬉しさが極限まで行くと、その嬉しさをどう表現していいのかが分からなくなって、まるで
彼女を馬鹿にしたような口調になってしまう。