● 008.本当の名前 ●
「あれ? あんなところに子供がいるよ」
街から街へと向かう途中。街道から少し離れた草むらに、水色の服を着た男の子を見かけた。
「本当だ。何をしているんだろう、あんな場所に一人きりで」
ユーディー、ラステルとヴィトスの三人はなんとなく足を止め、その少年を眺めた。少年は
短い棒きれを持った拳を振り上げながら、落ち尽きなく身をかがめたり、背を伸ばしたり
している。その様子はまるで、目の前にモンスターでもいて戦っているような……。
「……って、あれ、怪物に襲われてるじゃない!」
背の高い草に隠れて見づらかったが、少年の足元では緑色のぷるぷるした丸い固まりが
揺れていた。普通の緑ぷにの半分くらいの大きさのそのモンスターは、身体を震わせながら
少年の臑の辺りに控え目な体当たりを喰らわせている。
「ユーディット、助けてあげて」
そう言ってラステルは少年の方を指さした。
「……」
「ユーディー、聞いてるの?」
「へ? あ、あ。何?」
一瞬ぼんやりしてしまったユーディーがラステルの方に向き直る。
「早く助けてあげて。あの子、ケガをしてしまうわ」
ユーディーの瞳をのぞき込む。
「へ? あ、あたしぃ? 何で」
「何でって、ユーディー強いじゃない」
「強い、強くないじゃなくて。だってほら……、あれ?」
改めて少年がいた場所に目をやると、彼の姿は見えなくなっていた。おしゃべりをして
いるうちに少年はさっさと逃げ出して、奥の茂みにでも駆けて行ったのだろう。
残された緑ぷには所在なさげに左右を見回すと、草むらの中へと消えていった。
「あれ、子供逃げちゃった……。無事だったみたいだし、まいっか」
あはは、と笑って見せるユーディーだったが、
「……」
自分を見つめるラステルの怒り顔に、その笑いも徐々に薄れてしまう。
「……ユーディー」
「はい」
「だめじゃない、助けてあげなきゃ」
「だって、あ、そうだ、あたしよりヴィトスの方が強いじゃない。ヴィトスが助ければ
良かったんだよ」
すがるようにヴィトスのマントに手を伸ばす。
「僕かい?」
「ユーディー、人のせいにしちゃだめ」
しかし、ラステルに睨まれてその手を力なく落とした。
「人のせいってだって、ラステル……、ううん」
だったらラステル本人が助ければいいのにとは言えず、ユーディーはしょんぼりしてしまう。
「ごめん。今度は頑張るよ」
何となく釈然としない感情が引っかかっているが、やはりラステルには逆らえない。
「ええ、分かればいいのよ、ユーディー。次は頑張ってね」
次の機会など無ければいいなあと思いつつも、その時が来たらユーディーはラステルの
笑顔を見る為に、彼女の思い通り、期待通りの行動を取るだろう。
「うん」
ユーディーはしっかりと頷いた。
「……でも」
「どうしたの、ユーディー」
ラステルはユーディーの手を取り、二人並んで歩き出す。その後にヴィトスが続く。
「ちょっと、びっくりしちゃった」
「びっくりって、何が? ユーディー、緑ぷにに驚いたの?」
「ううん」
ユーディーは首を左右に振る。
「ラステル、あたしの事『ユーディット』って呼ぶんだもん。何だかどきっとしちゃった」
そして小さく微笑んだ。
「えっ、あ、そうだった? とっさにだから、無意識かしら」
「普段と違う呼ばれ方すると、不思議。ラステルに本当の名前呼ばれると、くすぐったいな」
ほんのりと頬を染め、困っているのと照れているのの中間あたりの表情を浮かべる。
「そうなの? ユーディー……、ユーディット?」
足を止め、いたずらっぽくユーディーの顔をのぞき込む。
「やっ、何よラステルったら。いつもみたいに『ユーディー』でいいよ」
「あら、変なユーディット。どうしたの? ユーディットったら」
「もう、やだあっ」
気恥ずかしさに頬を染めるユーディーの名前を繰り返し呼びながら、ラステルは笑っている。
「本当にいつも楽しそうだね、君達は」
呼び名が変わったくらいで、きゃあきゃあと元気にはしゃいでいる二人。
「楽しいよ。ねー、ラステル」
「ええ、楽しいですよ。ねえユーディー、あっ、ユーディット」
ラステルは律儀に名前を呼び直した。
「だから普通に呼んでって言ってるでしょっ。そういう事言う口は、ふさいじゃうわよ」
「きゃっ」
ユーディーはラステルにしっかりと抱き付いた。片手を彼女の背中に回したまま、
もう片方の手を可愛らしいくちびるに当てようとする。
「うふふ、そうはいかないわよ、ユーディット」
ラステルは身体をひねったり、頭を振ったりしてユーディーの手をよけようとする。
もともとユーディーも真剣に口をふさぐつもりはなく、抱き合いながらじゃれている
格好になっている。
「ほら、道の真ん中でいつまでも遊んでいるんじゃない。行くぞ」
「あっ、すみません」
「はーい。ラステル、続きは後でね」
二人は目を合わせ、くすくす笑った。
「しかし、呼び方だけでそんなに楽しめるものかな。これからは僕もユーディットの事を
ユーディーと呼ぼうか」
「えっ」
「何を驚いているんだい、ユーディー?」
「やーっ、何だか変だよ。ヴィトスはいいよ、普通に『ユーディット』で」
やはり、いつもの声で、いつも呼ばれ慣れているものではない名前を聞かされると、
落ち着かない気分になる。
「あら、別にいいじゃない、ユーディット」
「そうだよ。気にすることはないよ、ユーディー」
「何よ何よ、二人でからかわないでよっ」
「別にユーディーをからかってなんかいないよ。ねえ、ラステル」
「そうですよね。ユーディットったら気にしすぎよ」
ラステルとヴィトスは何かを企むように視線を合わせた。
「……ねえ、何でラステルとヴィトスって、あたしをいじめる時にすぐに意気投合するの?」
「別に君をいじめてなんかいないさ、ユーディー」
「そうよ、ユーディット。私がユーディットをいじめる訳ないじゃない」
うんうん、と頷くヴィトスとラステルの目は笑っている。
「いじめてるよ! いじめてるって言うか、あたしで遊んでるでしょ。んもーっ、
ラステル、ヴィトスの目を見ちゃだめ!」
ユーディーは意味ありげな目線をかわすラステルとヴィトスの間に割って入った。