● 004.ユーディーの赤ちゃん? ●
ばたん、と黒猫亭の二階にある工房の扉を開けたユーディーは、階段の上の手すりに近付くと、
そこからきょろきょろと階下を見回した。酒場のカウンターにもたれかかっているヴィトスの
姿を見つけると、早足で階段を駆け下り、そのまま真っ直ぐ彼に向かう。
「やあ、ユーディット。これからお出かけかい?」
どこかへ出かけるユーディーが、黒猫亭を出る前に気が向いて自分に挨拶に来たのだろうか。
彼女の方からこちらへ近付いて来てくれた事に少し嬉しくなり、ヴィトスはにっこりと笑顔を作った。
「ヴィトス、ちょっと付き合って」
「……?」
しかし、ユーディーはいきなりヴィトスの腕をつかむと、黒猫亭の外へと引っ張っていこうとする。
「どうしたんだい? いきなり」
「いいからお願い、話しがあるの」
「話しだったら別にここでもいいだろう」
「だめ。誰にも聞かれたくないの」
ユーディーはゆっくりと首を左右に振ると、更に強くヴィトスの腕を引っ張る。
「だったら、君の部屋はどうなんだい?」
「あたしの部屋は……もっとだめ。ね、ヴィトス、お願い。少しでいいから」
ユーディーの真剣な目と口調に圧倒され、
「ああ」
ヴィトスは連れられるままに彼女に付いて行った。
「ええと、ここら辺でいいかな。ここだったら、他の誰にも話し聞かれないよね」
黒猫亭を出て、石畳を少し歩いた人気のない場所。建物と建物の隙間、高く積まれたたるの陰に
なってあまり目立たない所まで行くと、ユーディーはヴィトスの手を離した。
「どうしたんだい、ユーディット」
ユーディーはヴィトスの正面に回り込むと、
「あの、あのね。結婚、したいの」
突然そう言い放った。
「……は?」
ユーディーは頬を真っ赤に染めて、ヴィトスを見つめている。彼女の突然の言葉に、ヴィトスは
驚いて言葉が出てこない。
「だめかな?」
可愛らしい上目遣いでヴィトスを見上げる。
「いや、だめって言われても、そんな、いきなり」
赤くなっている彼女を見て、自分もつられて頬が熱くなってしまう。ヴィトスは自分の表情を
隠そうと、口元に手を当てる。
「うーん、やっぱいきなりすぎるかな」
「そりゃそうだろう。だって、結婚……」
自分でも口に出し、改めてその言葉の意味を考える。
「結婚、か」
ずっと脇目もふらず仕事一筋で、極端に言えば毎日の晩ご飯の事も、好きな女の子の事も
考えずに突っ走ってきた人生だった。
(好きな、女の子か)
今、自分の目の前にいる、小さな少女。
(それも悪くないかもしれないな)
この歳で家庭を持つのは早すぎるかもしれないが、将来ゆくゆくはそういう選択肢があっても悪くない。
「君の気持ちは良く分かったよ、ユーディット。でも、こういう事には順番があるだろう」
「順番?」
「そう。まず、ゆっくり話しをして、お互いの事を良く知り合ってから事を運ぶのが
すじってものじゃないかな」
胸の中にこみ上げて来る高揚感を押さえながら、ヴィトスは落ち着いた声で語りかけた。
「だ、だって!」
逆に、ユーディーは少し焦ったような口調になる。
「赤ちゃんができちゃったんだもん! そんな悠長な事言ってられないわ!」
「……はあ?」
ユーディーの頬は更に赤くなってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。赤ちゃんって、誰のだ」
「決まってるじゃない、あたしよ!」
ヴィトスは不躾だと思いながらもユーディーのむき出しの、スリムなおなかに目をやった。
「そんな、僕は身に覚えがないぞ」
「はあ? 何言ってるの、あんたは関係ないわよ、あたしの子だって言ってるじゃない」
顎に手を当て、ヴィトスは少し考え込む。
「待ってくれ、ユーディット。さっきから君は何の話しをしているんだ」
「だから、あたしの赤ちゃんができたの! だから結婚しようと思ってるんだけど」
「話しの整理をさせてくれ。誰と誰の子供なんだ?」
「決まってるじゃない、あたしと、ラステルよ」
一瞬目眩を感じたが、ヴィトスは持ち前の気力で乗り切った。
「だからあたし、ラステルと結婚したいの。ダメかな?」
「……ダメも何も、勝手にしてくれ。じゃあな」
てっきり、自分に向かっての告白だと思い込んでしまっていたヴィトスは一気に気が抜けてしまう。
ひらひらと手を振って酒場に帰ろうとするが、ユーディーがマントをつかんで離さない。
「ヴィトス〜〜」
「離してくれ、ユーディット。君はラステルと二人でいつまでも幸せに暮らすといい」
「ねえ、相談に乗ってよぉ。ヴィトス以外に誰に話していいか、分かんないのよう」
ぐいぐい、とマントを引っ張る。
「そもそも、女の子同士で子供ができる訳ないじゃないか」
「そうだよねえ、でも」
うーん、と首をかしげる。
「ラステルのおなか、大きくなっちゃったんだもん。あたし達、すごく好き合ってるから、
神様が奇跡を起こしたのかも知れないし」
「おなかが大きくなった?」
つい数日前、仲良く連れ立って歩くユーディーとラステルを街中で見かけた。その時の
二人の姿を思い起こしてみるが、特にプロポーションに違和感を覚えたりはしなかった筈だ。
「それって、いつの事なんだい?」
「昨日の午後。ラステルがうちに泊まりに来たんだけど、その時にはもう赤ちゃんがいたみたい」
やっとユーディーはマントを離すと、手の動きで大きく膨らんだおなかを表現してみせる。
「その時には……、って、それ以前には気付かなかったのか?」
こくん、とユーディーは頷いた。
「赤ちゃん、って、そんなにすぐ大きくなるものなのか? 普通だったら、徐々に目立ってくるとか、
そういう過程があっても良さそうなものだろう」
ヴィトスは話しの途中、ユーディーに握られ、しわしわになってしまったマントを指先で伸ばした。
「だから、奇跡なんだよ、きっと」
ユーディーは祈るように両手を組み、きらきらした瞳で天を見つめた。
「でもほら、赤ちゃんができたら、やっぱり結婚とかしてきちんとしないといけないじゃない?
でも、女の子同士で結婚ってさせてもらえるのかな」
「知らないよ、そんなの」
「知らないって冷たいなあ。でも、こないだラステルと話してたウェディングドレスの事が、
もう現実になっちゃうなんて」
「ああ」
そう言えば先日、ベッドで下着姿で抱き合っているユーディーとラステルを偶然とはいえ
目にしてしまった事を思い出し、ヴィトスは妙に落ち着かない気分になる。
「真っ白で小さなユリをね、ラステルの髪に挿してあげたいの。で、あたしは同じユリで
ブーケを作るのね。で、あたしはピンクとオレンジのガーベラ飾りたいんだけど、ガーベラは
おかしいって。ねえ、おかしいかな?」
「僕に花の名前を言われても分からないよ」
ユリくらいなら分かるが、わざとそっけない返事をする。
「うーん、その前に式場か。ラステル、確かリサの教会で結婚式したいって言ってたな。
でも、リサでお式を挙げると、ラステルのご両親が来るのに大変じゃないかな?」
かなり動揺しているユーディーは自分でも何を言っているのか分からなくなっているようで、
話しだけがどんどん勝手に進んでいく。
「ご両親! ね、ねえヴィトス、あたしはラステルのご両親に何て説明すればいいの?
やっぱり、『お嬢さんを下さい』かな。ああ、こんな事なら、前、ラステルがあたしに
恋人のふりしてくれって頼まれた時、断るんじゃなかったかなあ?」
「取りあえず落ち着こう、ユーディット」
ヴィトスはユーディーの頬をつまむと、左右にむに〜、と引っ張った。
「い、いにゃにゃ、いにゃーい」
ユーディーは手を伸ばしてヴィトスの胸元をぽかぽかと叩く。
「はにゃして〜」
更に引っ張り、伸びきった所でぱっと手を離す。
「みぎゃ」
ユーディーは頬を押さえ、しゃがみ込んでしまった。
「な、何すんのよう」
涙の浮かんだ目でヴィトスを見上げる。
「いや、君がかなり混乱しているから、少し落ち着かせようと」
「落ち着いてるよ、あたしはっ」
しゃがんだまま、ヴィトスに引っ張られた頬をさすっている。
「そもそも、君は何をどうしていいか分からなくなった、つまり自分の置かれている立場と
状況が混乱してしまって収拾がつかなくなったから、僕に相談に来たんだろう?」
「そ、それはそうだけど」
「それに、問題事を抱えている当人と言う物は、少なからず冷静さを失っているものなんだよ。
第三者である僕から指摘させてもらうけど、ユーディット、君は実際のところ、かなり
混乱しているように見えるよ」
「う、うーん」
淡々としたヴィトスの冷静な言葉にうなりながら、ゆっくりと立ち上がる。
「君のするべき事は、まず事実を確認する事」
「事実って?」
「本当に、ラステルに子供ができたかどうかさ」
微妙な話しに、何となく照れくさくなってしまう。
「で、でも、ラステルがそう言ってるんだよ」
「彼女の勘違いという可能性もあり得なくはないだろう? 何だったら、僕が一緒に立ち会って
ラステルと話しをして、客観的な意見を述べさせてもらってもいいし」
「うん……」
「それからもう一つ。子供の事が本当だったとして」
まあ、多分何かの間違いだろうけどな、と口の中でつぶやく。
「君と、ラステルがどうしたいのか。それをはっきり話し合う必要があるな」
「ラステルは、あたしと結婚したいって思ってるに決まってるよ!」
拳を握りしめ、ユーディーはきっぱりと言い切った。
「それは、ラステルの口からはっきりと聞いたのかい?」
「ラステルは言わないけど、あたしはラステルの事何でも分かってるもん」
「ラステルから直接聞いてはいないのか。じゃあ、君の勢い余っての思い込み、って可能性も
否定できないと言う訳だね?」
「うっ」
反論しようと思って口を開きかけるが、言い返せなくて黙り込んでしまう。
「ラステルは今どこにいるんだ? 自分の家か?」
「ううん、あたしの部屋で休んでる。だからさっき、お話しするのはあたしの部屋じゃだめ、
って言ったの」
ごめんね、と小さく付け加える。
「じゃあ、今から会いに行こうか。話しは早い方がいいだろう」
「うん」
具体的な行動を提案され、気持ちが若干落ち着いたユーディーは、拗ねたような顔をしながらも頷いた。
「やっぱり、ヴィトスに相談して良かった……かな?」
それから、二人で並んで一緒に歩き出す。
「でも何か、ズバズバ言われてムカつく」
「真実と現実を受け入れるのは、いつでも辛くて厳しいものなのだよ、ユーディット」
うんうん、と頷くヴィトスの正面に回り込んだユーディーは、そこで足を止めた。つられて
歩みを止めるヴィトスの前で少し背伸びして手を伸ばすと、彼の頬を指先でつまむ。
「さっき少し痛かったから、ちょっとおかえし。ヴィトス、むにーっ」
いたずらっぽく舌を出しながら頬を軽く引っ張った。
「こら、ユーディット」
ヴィトスはすぐにユーディーの手首を握り、指を離させる。
「あっ、だめだよ、おかえししてるのに」
ヴィトスに手首を捕まえられたままで、ユーディーは少し怒った顔を作る。
「おいおい、優しい僕がせっかく親切に相談に乗って適切なアドバイスをしてあげているんだぞ。
そんな僕に対してこんな仕打ちをするのかい?」
「うん」
しっかりと頷く。
「ほう。いい態度だ」
握っていたユーディーの手を離すと、ヴィトスは片手を彼女の細い腰に回し、そのまま
自分の方へと抱き寄せた。
「……」
ユーディーは少しびっくりしたような目をしたものの、逆らう素振りは見せない。
「……」
無意識のうちにユーディーを抱き寄せてしまった自分に驚き、ヴィトスは言葉を無くしたままで
動きを止めてしまう。
自分の腕の中にいるユーディーの白くなめらかな肌、揺れる銀紫色の細い髪。黒目がちの
つややかな瞳、その縁を飾る濃く長いまつげ。
あと少しだけ顔を近付ければ、ほんのり赤くなっている彼女の頬にくちびるを寄せる事ができる。
(……くちびる?)
自分の胸の奥から沸き上がってきた意外な感情に、ヴィトスはふと我に返る。
(何を考えているんだ、僕は)
「ユーディット、むに〜」
一瞬前に口づけたいと思った頬を片手でつまんで、軽く引っ張る。
「きゃう」
身体をひねったユーディーは、両手でどん、とヴィトスの胸を突き飛ばした。
「な、何するのよっ!」
「……おかえしの、おかえしだよ」
ユーディーの頬と腰から離した手をぱたぱたと振って見せる。
「もう、訳分かんないわよっ」
とんとん、と足踏みすると、ユーディーはヴィトスから数歩後ずさった。
「訳が分からないのは君の方だろう?」
先ほどの感情をごまかすように冷静な声を作ったヴィトスは、親指と人差し指をわぎわぎと
はさみのように動かした。
「んもーっ、おかえしのおかえしの、おかえしっ」
体勢を整え直したユーディーは、自分も親指と人差し指ではさみを作り、ヴィトスに
襲いかかろうとする。
「ほらほら、いつまでこんな事をやっているんだ。ラステルの所に行くんだろう?」
迫り来るユーディーのはさみを自分のはさみで受け止める。
「あ、そうだった。……えいっ」
かけ声と共に一歩前に踏み込んだユーディーは、自分の手を押し出してヴィトスの指を振り払う。
「今日はこの辺で勘弁しておいてあげるわ」
ふん、と鼻を鳴らすと、くるりと背を向け歩き出す。
「僕と戦いたいんだったら、いつでもお相手してあげるよ」
ユーディーの背中で揺れる長い髪を見ながら、ヴィトスは妙に早くなってしまった自分の心臓の
音から気を反らそうとする。
(何なんだ、いったい)
自分でも分からない感情が再び現れないように気持ちを戒めつつ、ヴィトスは黒猫亭へ向かう
ユーディーの数歩後を歩いた。
「ラステルぅ、ただいま〜」
自分の部屋に帰るにしては控え目な声を出し、ユーディーはそっと工房の扉を開けた。
「ユーディー、おかえりなさい」
部屋の中からラステルの声が聞こえる。ユーディーが部屋に入ると、その後にヴィトスが続く。
「ラステル、どう? 具合悪くなったりしてない?」
「ええ、平気よ……、あっ、ヴィトスさん」
ベッドに座っていたラステルは、ヴィトスの姿を見て少し緊張したようだった。
「やあ、ラステル……」
挨拶の途中でヴィトスは言葉を無くした。山吹色のラステルのドレスの腹部は、確かに
ゆるやかに膨らんでいる。
「ラステル、大丈夫よ。ヴィトスにはお話ししたの。あたし達の味方になってくれるって」
「えっ、ええ」
ばつが悪そうに、ラステルはヴィトスから目をそむける。
別に味方になるなどと言った覚えはなかったが、ヴィトスは口をつぐんだままでいた。
「だからラステルは心配しなくていいのよ。ねっ?」
ユーディーはベッドのそばまで歩いていくと、ラステルの前の床に膝をついた。
「ねえ、ラステル。あたし達と赤ちゃんの事、ラステルのお父様やお母様にお話しした方が
いいのかな?」
「えっ?」
驚くラステルの両手を、ユーディーはしっかりと握った。
「それで……、ねえ、ラステルはあたしと結婚したい? ラステルがそうしたいなら、あたし
ラステルの望み通りにするよ」
「あっ、それは、ええと、その……」
ラステルは、自分の足元にいるユーディーと、部屋の戸口に立っているヴィトスを交互に
見つめ、困ったように口ごもった。
「……何だか、丸いクッションを入れているようにも見えるんだが」
「えっ!」
ぼそり、とつぶやいたヴィトスの言葉に、ラステルは驚いた声を上げた。
「ヴィトス、何言ってるの。どう見ても赤ちゃんがいるようにしか見えないわよ!」
「え、ええっと、その、ち、違います……よ」
怒るユーディー、明らかに動揺しているラステル。
「失礼」
ヴィトスは部屋を横切り、二人の方へと向かう。
「おなか、触らせてもらってもいいかな?」
「あ、あの、その、それはちょっと……」
慌ててラステルは自分の両手で膨らんだおなかをかばった。
「……だめ」
口ごもるラステルより先に、ユーディーがヴィトスを制止する。
「ラステルが嫌がってるのに、触っちゃだめよ。今、デリケートな時期なんだから」
ユーディーはラステルの膝に頭を置くと、彼女の腰にやわらかく抱き付いた。
「ユーディット。君はこの状況を解決したいのか、したくないのか、どっちなんだい?」
「あたし? あたしは」
言葉を切り、少し考える。
「ねえ、ラステルはどうしたい?」
それから、ラステルの顔を見上げた。
「私……、私、は……、ユーディーにずっとそばにいて欲しい」
ラステルはそっと手を持ち上げ、ユーディーのやわらかい髪に触れた。
「ずっと、ユーディーのそばにいさせて欲しい。あの、お父様やお母様にお話しするとか、
結婚……とかは今はいいわ。ただ、ユーディーのそばにいられればいいの」
うつむき、不明瞭にもごもごとしゃべる。
「そうだ、所で、君のご両親は君の、その……赤ちゃんの事は知っているのか?」
はっ、とラステルが顔を上げる。
「ええっと、あの、は、はい。喜んでくれています」
しどろもどろになっているラステルはヴィトスの方に顔を向けてはいるが、決して目を
合わせようとはしない。
「あ、あの、そうだわ。私、一度家に帰らないと。支度をするので、ヴィトスさんは席を
外して頂けませんか?」
これ以上ヴィトスに細かい事を追求されたくはないのだろう。ラステルは何とかして
ヴィトスを部屋から追い出そうとする。
「えっ、ラステル帰っちゃうの?」
「ええ。その代わり、また明日のお昼頃来るから」
ラステルは、ちらちらとヴィトスの方をうかがっている。
ユーディーの気を引きたくて、ラステルが嘘の芝居をしている事は分かった。それをユーディーに
今すぐ教えてやろうかとも思ったが、
「分かった、そうするよ」
ここはいったん身を引く事にした。ヴィトスの言葉を聞いて、明らかにラステルはほっとした
表情になる。
「ごめんね、ヴィトス。相談に乗ってくれて、ありがと」
ユーディーは立ち上がると、ヴィトスに向かって小さく頭を下げた。
「ああ」
ここで口出しをしても、ラステルに絶対的な信頼を置いているユーディーはヴィトスの意見を
聞き入れないに違いない。
「じゃあな」
余計な事は言わず、軽く片手を上げるとヴィトスは工房のドアを出た。
「……さて」
黒猫亭への階段を降りながら、ゆっくりと思案する。
「このまま放っておいてもいいんだが」
遅かれ早かれ、ラステルの嘘は露見してしまうだろう。
「後になって話しがこじれたりするとややこしくなるかもしれないし」
一つ嘘をつくと、それを隠す為に次々に新しい嘘を生み出さざるを得ない状況に陥ってしまう。
仲の良い二人の事だから、嘘をついた、つかないで大げんかになる事もないと思うが。
「取り返しの付かなくなった段階で嘘がばれた時に、ユーディットが傷付いても可哀想だしな」
階段を降りきった所で、ふと立ち止まる。
「……別に、ユーディットが親友に嘘をつかれて傷付こうが、大騒ぎになろうが僕には
関係のない事だが」
顎に指を当て、少し考え込む。
「うん、そうだな。ユーディットが落ち込んだりして仕事に支障が出ると、僕の借金回収が
滞ってしまうからな。そんな事態はあらかじめ回避しないといけないだろう」
何かとユーディーに気を配ってしまう自分を認めたくなくて、ヴィトスは心の中でいろいろと
言い訳を考えた。
「だったら、ラステルのお茶目な冗談で済むうちにどうにか手を打っておいた方がいいな。
それに、僕がラステルの嘘をあばいて、あの二人を混乱させてやるのも面白いだろうし」
うんうん、と頷いて、あまり説得力のない言い訳を自分自身に納得させる。
「さて、そうと決まったらどうしようかな」
まだ時間も早い為、人の姿がまばらな黒猫亭の中を見回す。
「……あまり良い趣味とは言えないが、ラステルの後をつけて様子を見てみるか」
ヴィトスは店を出ると、建物の陰にそっと身を潜めた。
ほとんど待たず、ラステルが黒猫亭のドアを開けて中央広場へと出てくる。普段は身に
まとった事がないようなゆったりした深緑色のローブを着て、身体のラインを隠しているようだ。
両手でローブの前をしっかりと握ったラステルは、きょろきょろと辺りを見回すとそそくさと
家のある方向へ向かう。ヴィトスはつかず離れずの距離を保ちながら、その後を付いていった。
「おや?」
途中、ラステルは本道から外れ、建物と建物の間の細い道へと入っていく。
「あんな所に、ラステルの家へ向かう近道でもあるのかな」
彼女を見失ってはいけないと、ヴィトスは身体を隠しながらその細道を覗いてみた。木箱や
たるが雑然と置かれている道、その行き止まりらしい場所で立ち止まったラステルは、そこで
背中を丸め、ごそごそと何かをやっているようだった。
「何をしているんだ?」
やがてローブを脱ぎ、それを丸めてたるの中に入れ、フタを閉める。
「おっと」
振り返ったラステルがこちらに向かってくるのを見て、彼女に気付かれる前にヴィトスは
細道から外れて充分な距離を取った。
細道から出る前に、ラステルはまたも左右を見回した。自分の方に注意を向けている人が
いないのを確認してから、何食わぬ顔で本道に戻ってくる。
ラステルは彼女の普段着、山吹色のドレスと深いワイン色のショールをまとっていた。
先ほど、ユーディーの部屋で見た時丸く膨らんでいたおなかは、今は真っ平らになっている。
「ふむ」
ラステルの姿が見えなくなると、ヴィトスは彼女が何かを隠していた細道に入ってみた。
「このたるだな」
先ほどラステルがいじっていたたるのフタを開けてみると、彼女が着ていたローブと、
「何だ? これは」
丸いクッションに布のベルトを縫いつけたものが見つかった。
「ああ、これをおなかに巻いていたのか」
どうやらラステルの手作りらしい、そのクッションを持ち上げる。
「ここまでしてユーディーの気を引きたいのかねえ」
思わず笑いがこみ上げ、ヴィトスは口元を手で押さえた。
「さて、どうしようか」
なるべくなら、みんな笑って事が終わる方がいい。
「取りあえず、このローブはここに戻しておいて、クッションだけ僕が取り上げるとするか」
明日、昼より少し早い時間にユーディーの部屋を訪ね、ラステルを迎えに行くと言う事にして
外に出る。道の途中でおなかの膨らんでいないラステルに会える筈だから、その時クッションの件を
ばらしてしまえばいい。
「全く、あの二人のめんどうを見るのも楽じゃないな。手がかかる」
そう言いつつも、ユーディーとラステルの世話を焼くのは結構いい気晴らしになったりする。
「まあ、僕がユーディットとラステルを振り回して、慌てる二人を高みの見物、と言うのも
悪くはないからな」
どちらかと言えば、最近では自分の方が二人に振り回されているような気もしないでもないが、
その点についてはあまり深く考えないようにする。
ヴィトスはクッションを脇に抱え、それをゆったりとマントで覆うと、細道を出た。
◆◇◆◇◆
「はーいっ」
次の日のお昼近く、工房のドアに響くノックの音にユーディーは元気に返事をした。すぐに
駆け寄り勢いよくドアを開けるが、
「ありゃ。なーんだ、ヴィトスか」
そこに立っているのが自分の大親友ではない事を知ると、あからさまに肩を落とす。
「何だ、で悪かったね。ところでユーディット、ラステルはまだここに来ていないのかい?」
ヴィトスは珍しく、肩から大きなカバンをかついでいた。
「まだよ。なんだ、てっきりラステルがドアをノックしてくれたのかと思ったのに。お昼ご飯の
準備もして待ってたんだから」
ふふん、と少し得意げに鼻で笑うと、ヴィトスに部屋の中が見えるように立ち位置をずらす。
ユーディーが指さしたテーブルの上には、きれいな色とりどりのサラダ、ジュースやミルク、
美味しそうな焼きたてパンが並んでいる。
「おや、二人分しかないようだが」
「うん、あたしとラステルの分よ。あと、ラステルが来てからスープを温めて、玉子を焼くの」
「僕の分は?」
さも当然のように自分の食事を要求するヴィトスに、ユーディーは少し驚いた顔を作る。
「は? 何であんたの分がいる訳?」
「何で、って、僕も一緒に昼食にご招待預かろうと思ったからさ」
「はあ? 誰もあんたなんかご招待する訳ないじゃない。デザートだって二人分しか、いっ、
いにゃ、いにゃーいっ」
ヴィトスはユーディーの頬をつまみ、またもやむにむにと引っ張った。
「冷たいねえ、ユーディットは。一人くらい増えてもかまわないだろう?」
楽しそうな口調で、それでもヴィトスは指を離さない。
「あ、あうう、暴力反対〜!」
ユーディーはヴィトスの手首をつかむと、どうにかその手を頬から離させようとする。
「暴力じゃないよ、可愛いユーディットとのコミュニケーションさ」
「……え?」
「え?」
「今ヴィトス、あたしの事、何て言った? ……か、可愛いとかって、言わなかった?」
「あ、いや」
つままれた頬を赤く染め、ユーディーの抵抗が一瞬止まる。
「いや、ええと……、そうだな、借金を負わされて可哀想なユーディット、って言ったのさ」
とっさに出てしまった言葉をごまかすと、ヴィトスはやっとユーディーの頬から指を離す。
「ううう、何だ、聞き間違いか。どうせあたしは可哀想ですよ。て言うか、借金取りに
可哀想がられても嬉しくない」
自分の頬に両手を当て、次なる攻撃からそこを守ろうとする。
「まあ、何でもいいか。それより、そろそろラステルが来るんだろう? 一緒に迎えに行かないか。
彼女の通ってくる道は一本道だろう、すれ違いになる事も無いと思うんだが」
「あ、そうだね、いい考え。そうしよっかな」
ユーディーはくるりと振り向き、テーブルに近付く。サラダやパンの上にそっときれいな
ふきんをかぶせてほこりよけにすると、すぐにドアの方へ戻ってくる。
「せっかくだから、僕も一緒に行こうか」
「何であんたが来るのよっ」
「まあまあ。いい考えを提案してあげたんだから、いいじゃないか」
妙ににこにこしているヴィトスに、ユーディーはあからさまに不信感を示す。
「何か今日ヴィトス、あやしい」
「そうかい? 僕はいつでも爽やかな好青年じゃないか」
その言葉を聞いて、ユーディーはぷっと吹き出してしまう。
「ヴィトスと爽やかって、イメージ合わないなあ。もう、しょうがないなあ。ヴィトスいると
楽しいし、今回は特別にお食事にお招きしてあげるとしましょうか」
「ああ、嬉しいな。どうもありがとう」
ヴィトスはわざとらしく丁寧に頭を下げた。
「でも、デザートは無いからね。ヴィトスの食後はお茶だけよ」
他愛のない話しをしながら、黒猫亭への階段を降りていく。酒場を出て、ラステルが向かってくる
筈の道を二人で歩く。
「デザートは何なんだい?」
「いろんなフルーツを切って、シロップに漬けておいたの。ヴィトスに見せびらかしながら
食べちゃうもんね」
「ふむ、そうだな、じゃあ僕はレヘルンクリームでも買っていって、君達の前で一人で食べるか」
「ええっ、ずるいよ、そんなの!」
少し怒った顔のユーディーだったが、
「あっ、そうだ。だったらあたしもクリーム買って帰っちゃうもんねえ。そんで、あたしと
ラステルのフルーツにクリームたっぷり乗せるの。ああっ、美味しそう!」
名案を思いつき、とたんにうっとりとした顔になる。
「だったら、今回は特別に僕がクリームを買ってあげるから、その代わりにフルーツを分けて
くれないか? 二人でこそこそ食べるより、三人で仲良く食べた方が美味しく感じると
思うけれどね」
「えっ、ヴィトスおごってくれるの? どうしようかなあ〜。あっ、ラステルだ」
つまらない話しをしながら歩く道の先に、昨日と同じローブをまとっているラステルの姿が見える。
ラステルは落ち尽きなく左右を見回しながら、困ったような表情をしている。
「おーいっ、ラステルーっ!」
元気よく名前を呼び、手を振るユーディーの姿を目に留めると、ラステルはくるりと背を向け、
逃げるように走っていってしまう。
「あ、あれれ? どうしたの、ラステル」
階段通りの方へ駆けていくラステルを追いかけようと、ユーディーも小走りになる。その後に
ヴィトスが続く。
「そんなに走ったら危ないよ!」
ぱたぱたと石畳の上を走り、道の角を曲がり、階段を駆け下りて雑貨屋の前を通る。
「ラステルってば!」
武器屋さんの横、石の階段のアーチの下にうずくまっているラステルを見つけ、ユーディーは
心配そうに駆け寄った。
「だ、大丈夫? 急に走ったからおなか痛くなっちゃったの?」
おろおろしながらも、ユーディーはラステルの肩を優しくさすった。ヴィトスは数歩離れて
その様子を見守っている。
「……」
大きなおなかをかばうように抱え、ユーディーを見上げるラステルの瞳には涙が滲んでいた。
「おや?」
昨日、ラステルがおなかに入れていたクッションは、今はヴィトスのカバンの中に収まっている。
(じゃあ、あのおなかは、どうしたんだろう)
明らかに落ち着きのないラステルの態度から、おなかに入れる筈のクッションが無くなっていて
動揺しているのだろう、と想像は付く。
(代わりに入れる物を慌てて見つけたのかな)
ヴィトスが不思議に思っている間も、ラステルは一言もしゃべろうとしない。
「どうしたの、急に逃げちゃうなんて。ねえ、具合悪いの? あたしの部屋で休む?」
「きゃっ!」
突然ラステルが短い悲鳴を上げる。
「ラステル!」
「痛い、あっ、きゃあっ」
「ラ、ラステル、どうしたの、おなか……」
ラステルのおなかが波打つようにもぞもぞと動いた。
「にゃーんっ」
そして、大きな黒ネコがラステルのスカートの裾から飛び出してきた。
「にゃっ、にゃーん」
不満そうな、怒った声で一言二言鳴きながら、ネコは早足でその場から逃げ去ってしまう。
「……」
今にも泣き出してしまいそうなラステル、ネコの後ろ姿を呆然と見守るユーディー。
「ユーディット? ラステルも、大丈夫か?」
心配そうなヴィトスの声を遮り、ユーディーが慌て出す。
「ねっ、ネコっ! あ、あたしの赤ちゃん、ネコーっ!!」
「ユーディット、落ち着いて」
クッションの代わりに、ネコをスカートの中に入れていたなんて。
笑いを噛み殺すのに苦労しているヴィトスの前で、ユーディーはしゃがんだままのラステルと、
ネコの逃げて行った方向を交互に見つめている。
「だって、だって! ネコ、ネコの子が生まれちゃったよ! ……にゃ、あにゃーんっ」
「ほら、ユーディット。落ち着いてごらん」
すっかりユーディーの頬をつまむのが楽しくなっているヴィトスは、またもや彼女の顔を左右に
ぐにぐにと引っ張る。
「いやっ、それいたいのー、やーっ」
「大げさだなあ、そんなに痛くはしていない筈だよ」
「ヴィトスさん、ユーディーをいじめちゃダメ!」
泣き顔になっているユーディーを助けようと、ラステルはすぐさま立ち上がる。二人の間に
身体を割り込ませ、ヴィトスの悪行を止めようとする。
「いじめてなんかいないよ。愛情表現……いや、金貸しとお客様の楽しいコミュニケーションさ」
「だって、ユーディー泣いてます」
ラステルはヴィトスに向かって怖い顔を作って見せたが、結果的にそれは可愛い顔を
少ししかめた程度にしかならなかった。
「あれ? ラステル、おなか大丈夫なの?」
首を左右に振りまくり、何とかヴィトスの手から逃れたユーディーが不思議そうに尋ねる。
「あっ」
動作の途中でローブがはためき、ラステルの腹部のすらりとしたラインがドレス越しにも
はっきりと分かる。
「あの、あっ」
身を引き、両手でおなかを隠すが、もう今更間に合わなかった。
「あの、ラステル? あたしとラステルの赤ちゃん、って、さっきのニャンコじゃないよね?」
否定も肯定もできず、ラステルはおなかを隠したまま石の壁に寄りかかり、泣きそうな顔をしている。
「ねえ、ラステル。赤ちゃんができたのって、もしかして……、嘘、だったの?」
「あ、あの、それは……」
こらえきれずにラステルの頬に一粒、涙がこぼれ落ちてしまう。
「ひどいっ! あたし、すごく心配したんだよ。ラステルの為にどうしたらいいか、一生懸命
考えて、それなのに」
「まあまあ」
声が荒くなるユーディーと泣き出してしまうラステルの間に、今度はヴィトスが割って入った。
「いや、真に迫った演技だったよ、ラステル。あやうく僕もだまされる所だった」
ユーディーとラステルは不思議そうな顔でヴィトスを見つめる。
「昨日、ラステルが帰った後、野良ネコがこれをくわえているのを見つけてね。君のだろう、
返しておくよ」
ヴィトスは肩にかけているカバンからクッションを取り出すと、それをラステルに押し付ける。
「だって、ラステルよりヴィトスが先に帰ったのに」
「どうしてこれが私のだって」
「しかし、将来赤ちゃんができた時の為に予行演習をしておこうだなんて、考えたな」
二人がもっともな疑問を最後まで口にする前に、ヴィトスは大げさな態度でうんうん、と
頷いて見せる。
「予行演習?」
「そうだろう、ラステル? 何にせよ、心構えという物は大切だからな」
ヴィトスはユーディーから表情が見えない角度でラステルの方に顔を向け、片目をつぶる。
「あっ、あの、……はい」
ラステルはどうやらヴィトスが自分を助けてくれるつもりだ、と言う事が理解できたらしく、
慌てて頷いた。
「ユーディットもだいぶ驚いたようだが、あれだけしっかりラステルに気遣いできれば、
本当に赤ちゃんができた時でも大丈夫だと思うよ」
「えっと、あの……えっ?」
まだ充分に気持ちの整理が付かない様子のユーディーの頭を、ヴィトスは大きな手でなでてやる。
「ユーディットは、本当にラステルの事が大好きなんだね。うんうん、君はとってもいい子だ」
「あの、えっ? あたし、あの」
「ラステルの事が、好きなんだろう?」
「うん、好きよ。ラステルの事、大好き」
聞かれて、正直な気持ちを口にする。
「そして、ラステルもユーディットの事が大好き、と」
ユーディーをなでているのとは反対の手で、今度はラステルの頭をなでる。ラステルは少しだけ
驚いたようだったが、ヴィトスにされるままになっていた。
「はい。私、ユーディーが大好きです」
頬を赤らめ、こくん、と頷いた。
ヴィトスが手を引くと、二人がお互いの方を向き合う。
「ユーディー、驚かせてごめんなさい。私、ユーディーの赤ちゃんが欲しかったの。
困らせたり、心配させたりするつもりは無かったんだけど、でも」
「ああ、うん、ええと……」
未だに釈然としていない表情のユーディーだったが、悲しそうなラステルを前にして、
怒った気分が長続きする筈もなかった。
「そっか。もう、しょうがないなあ、ラステルは」
にっこりと笑顔を作ると、ぎゅっ、とラステルを抱きしめる。
「ごめんなさい、ユーディー」
「うん。でも、もう嘘とかついちゃダメだよ。あたしとラステルの間に、嘘とか隠し事は無し」
「うん」
目に涙をため、ラステルもユーディーの身体を抱きしめ返す。
「それと! もし、もし、本当にあたしの赤ちゃんができたら、その時はすぐにあたしに
言ってね。あたし、ちゃんとラステルの事、お嫁さんにするから」
「……」
真っ赤になり、無言で頷くラステル。一歩離れた所で二人を見ているヴィトスは言いたい事が
たくさんあったが、これ以上話しをややこしくしても仕方がないのであえて口をつぐんでいた。
「ごめんね。ユーディー、大好き」
「うん、あたしもラステル大好き」
そして、ちゅっ、ちゅっとお互いの頬に軽いキスをする。
「ね、ラステル、おなかすかない? お昼ご飯用意してあるんだ。部屋に帰って一緒に食べようよ」
「ええ」
抱き合っていた身体は離したが、その代わりにしっかりと手をつなぐ。
「そんで、ヴィトスがあたし達にレヘルンクリームおごってくれるんだって。ついでに玉子も
焼いてくれるらしいから、楽しみだねっ」
「おいおいユーディット、クリームはともかくとして、いつ僕が玉子を料理するなんて言った?」
「いいじゃない、ヴィトスのお料理美味しいんだもの」
ラステルの手を引き、ユーディーはすたすたと歩き出す。
小さくため息をついたヴィトスが二人の後に続くと、ラステルがそっと後ろを振り向き、
口の動きだけで『ありがとうございます』とつぶやいた。返事の代わりに片目をつぶって
見せると、ラステルは嬉しそうに微笑み、正面を向いてユーディーに身体を寄せる。
「ふむ」
ひどい揉め事にならずに済んで良かった、ユーディーが単純で助かった、などと考えつつ、
ヴィトスは自分の機嫌が非常に良くなっている事に気付く。
(全く、この二人は見ていて飽きないな)
気分が良くなりついでに、二人のそれぞれの好みの方法で玉子を料理してやってもいいかも
しれない、と思いかけたヴィトスのすぐ前で、ラステルがおなかに片手を当て、立ち止まった。
「ラステル、どうしたの?」
「ううん、何でもないわ」
ぱっ、と手をどけ、左右に首を振る。
「嘘、何でもない事ない。さっき言ったばっかりでしょ、あたしに隠し事無し、って」
少し辛そうな顔をするラステルの頬を指でなでる。
「あ、うん、ごめんなさい」
小さく頭を下げ、
「あのね、さっき、ネコちゃんをスカートの中に入れた時に、おなかをちょっと引っ掻かれて
しまったみたいなの」
素直に白状する。
「ええっ? 大変! ネコ毒が入っちゃうよ、ネコ毒!」
ユーディーはラステルのおなかをさすろうとしたが、痛い場所に触れてはいけないと手を
引っ込める。
「ネコ毒? 何だそれは」
「ネコのツメにはバイキンがくっついてるのよ。ラステル、痛い? 可哀想。部屋に帰ったら、
すぐに消毒して、お薬塗ってあげるからね」
「そんなたいした事はないと思うんだけど。ただ、ちょっとドレスの布がこすれると少し
ひりひりするだけで」
「だめだめ。あたしの大事なラステルのきれいな身体に、キズが残ったら大変だもの」
「……」
真っ赤になるラステルの手をしっかりと握り直し、早歩きで中央広場へ向かう階段を上がる。
「大丈夫? 速く歩いてもおなか痛くない?」
「ええ」
ラステルを気遣うように、ちらちらと彼女の方をうかがう。
黒猫亭の前に着くと、
「ね、ヴィトスはクリーム買ってきてからお部屋に来てくれるかな。あたしがラステルの
おなかを診ている時、お部屋に入って来ちゃダメよ」
そう言って、食料品店を指さす。
「ああ、じゃあ、少し時間を潰してから行くよ。僕がうっかり入ってしまわないように、
治療が終わるまで部屋の鍵はかけておいてくれよ」
「うん。あ、クリームは三つね。ちゃあんと買ってきてね」
「おいおい、いつ三つも買うって話しになったんだ? 僕はてっきり、一つをみんなで分けるのかと」
「えっ、人数分よ。当たり前じゃない」
言い争いと言う程ではないが、揉めそうになるユーディーとヴィトスに、ラステルがおずおずと
声をかける。
「あ、あの、レヘルンクリームのお金、私がお出ししましょうか」
「いいのいいの、ヴィトスは可哀想な債務者からいっぱいお金を取り上げて、裕福なんだから」
ラステルににっこりと笑いかけ、そのすぐ後にヴィトスに舌を出して見せる。
「金貸しの仕事もそうそう儲かるものでもないんだけれどね。まあいい、僕はそろそろ
ここの二階に住んでる錬金術師のお嬢さんからたんまりと利子を頂くつもりでいるから、
レヘルンクリーム代くらい賄えるだろう」
「ええっ!」
ヴィトスが黒猫亭の二階に目をやると、ユーディーは驚いた声を上げる。
「ううう、じゃあ、ヴィトスがおごってくれるって言っても、あたしのお金なんじゃない。
じゃあ、三個なんてケチケチしないで、六個! 一人二個当てで、六個買ってきて!」
「そんなに食べたら、おなかを冷やしてしまうよ」
くすくすと笑うヴィトス。
「あ、おなかと言えば、ラステルのおなかに薬塗らなきゃ。じゃ、ヴィトス、後でねえ」
忘れてた、ごめん、などとラステルに謝りながら、ユーディーは黒猫亭に入って行く。
仲良さそうな二人の後ろ姿を見ているうちに、ヴィトスはまた笑いがこみ上げてきてしまった。