「……いつまで続くのかな、こんな事」
リイタは、震える自分の身体を両手できつく抱きしめた。
夜の冷たい風が、リイタの長い髪と白い羽根を揺らす。
「いつまで保つのかな、あたしの身体」
口の中でつぶやき、涙をこらえるようにくちびるをきつく噛んだ。
◆◇◆◇◆
「リイタ、大丈夫かな」
居心地のいいテントの中。クレインはうろうろと歩き回りながら、ふいと出て行ってしまった
リイタを心配している。
今日の昼間、敵のモンスターを倒そうとしたリイタの身体が一瞬止まった。リイタの顔に
辛そうな表情がよぎり、それとほぼ同時に背中に白い翼が現れた。
『何でもない、気にしないで』
何でもない筈もなく、気にしないでいる訳にもいかない。しかし、歯を食いしばって敵に
立ち向かっていくリイタに、クレインは声をかける事ができなかった。
たった数ターンの行動で、額に脂汗を滲ませ、息が上がってしまう。何より普段のリイタと
違って、モンスターを相手にした時の状況判断力が欠けてしまっている。
『さ、次、次。行こ』
無駄な攻撃を繰り返しながらもなんとか敵を倒すと、クレイン達に顔を向けず、さっさと
先に進む。いやでも目に入る、彼女が辛い時に現れるというまばゆいくらいの白い羽根。
リイタを休ませる為に早めにキャンプを張ろうとしたが、当然彼女はそんな提案を受け入れない。
『同情されるのが、一番嫌なの!』
そう言ってクレインを睨み、敵の姿を見かけると自分から突っ込んでいく。
日が暮れ、やっとキャンプをしてもおかしくない時間になると、クレイン達は慌ててテントを張った。
デルサスが彼にしては珍しく手早く、温かい食事と飲み物の用意をする。しかし、リイタはそれに
ほんのわずか口を付けただけで、『風に当たりたい』とテントの外へ出て行ってしまったのだった。
「あいつが飯を食べないなんて、よっぽどなんだろうな」
「そういうお前も、せっかくデルサス様が作ったシチューを全然食べてねえぞ」
「あ、ああ、ごめん」
リイタが外に出てから、クレインは自分の食事にろくに手を付けずに、テントの外をのぞいたり、
また自分の場所に戻ったりを繰り返している。
「ゴハンを食べてる時に歩き回るなんて、クレインはお行儀が悪いのニャ〜」
「そうだね、すまない」
「……そんなに気になるなら、行ってこいよ」
「え、でも。リイタ、同情されるの嫌いだって」
もたもたとスプーンで料理をかき回しているクレインから、デルサスは皿を取り上げた。
「そんなしけた顔してるヤツに食べさせる料理は無いのよ」
「ごめん、だから食べるって」
デルサスは皿を持っているのとは反対の手で、クレインをこん、とこづく。
「いいから、お前も食欲増進の為に風に当たってこい。な? もしフライングドロップキックでも
食らったら、その時は大人しく帰ってきて飯を食えばいい」
「ああ……、すまない」
クレインはさっと立ち上がると、テントの外へと駆けていった。
「あーっ! ノルンも行くのニャ!」
「お前さんは大人しくしてろ」
クレインの後を追いかけようとしたノルンの首根っこをつかむ。
「だって、ずるいのニャ、いつもクレインとリイタばっかり仲良くして! ノルンも行く〜」
「リイタは具合が悪いんだよ。お前さんも分かってるだろう?」
「分かってるニャ。でも……」
クレインに甘えたがっているノルン。しかし、ノルンもリイタの様子には気付いている。
自分のわがままを押し通したい気持ちと、リイタの体調を気遣う感情。二つの思いが
ごっちゃになっているノルンは、悲しい顔でデルサスを見上げた。
「ほら、大人しい、いい子には食後のデザートだ」
デルサスは勝手にクレインのナップサックを探ると、美味しそうなバナァナババロアを取り出す。
「ん」
ぴくり、とノルンのしっぽが反応する。
「欲しいか?」
「欲しいニャ」
浮かせていた腰を、すとん、と床に下ろすと、素直に両手を差し出してババロアを受け取る。
「ノルンはいい子だから、デザートでがまんできるな?」
「んニャ」
ノルンはくちびるを噛んだが、こくん、と頷いた。
「でも、デザートと一緒にミルクも欲しいニャ〜。ちょっとあっためてニャ」
「あいあい」
マメなデルサスは、いそいそと給仕をする。ミルクパンにミルクを注ぎ、火にかける。
「あ、そうニャ」
口元にタルトの破片を付けたまま、ノルンが顔を上げる。
「ノルンはなんだか眠くなってきたから、デザートを食べたら寝るのニャ。でも、クレインが
手をつないでくれないと眠れないのニャ……」
「全く、世話が焼けるな。今日はオレで我慢しとけ」
そう言ってデルサスは、ノルンの舌に合うように程よくぬるくなったミルクをコップに入れて
手渡した。
「えー」
少し不満そうな顔をして、それから先ほどから無言のアーリンの方に目をやる。
「ん、アーリンも手、つないでくれるニャ?」
「えっ」
急に話しかけられ、少し驚いた顔をする。
「いや……、そういうのは性に合わない」
「デルサスと、アーリンが手をつないでくれたら寝るニャ。手をつないでくれなかったら、
寝れないのニャ。寝れなかったら、テントの中で一晩中踊っちゃうのニャ〜!」
上目遣いでおねだりされ、アーリンは少し困ったような表情になる。
「まあ、どうしても手をつなぐのが恥ずかしいんだったら、せめて横に並んで寝てやるくらい
してやれよ。一晩こいつに騒がれたら、たまらん」
「いや、恥ずかしいとかそういう問題では……、まあ、並んで寝るくらいならいいだろう」
仕方なくアーリンは曖昧に頷いた。
「わーいニャ! あ、デルサス、デザートおかわりニャ〜」
「まだ喰うのかよ。っていうか今、お前眠いって」
「もう一個食べたら眠くなる予定なのニャ」
ノルンはナップサックに手を突っ込み、イチゴムースを取り出す。
「よく喰うねえ、お前さんは」
「だって、美味しいのニャ。美味しいご飯は、いっぱい食べられるのニャ」
幸せそうにムースを頬張り、イチゴの味が口の中で溶けていく快い感覚を味わっている。
「まあ、用意した飯を美味そうに食べてくれりゃ、悪い気はしないがな」
ふいに、ワイルドモスのノーマンさんが、作った料理を次々に平らげるリイタを嬉しそうに
見守っている時の表情を思い浮かべる。
「オレ、料理屋になろうかなあ、なんてな」
「デルサスは、手が遅いからダメニャ」
「手が遅い、って。こりゃまたキツい事を言うねえ。ほら、口の周りに付いてるぜ」
「んん〜〜」
きれいな布でノルンの口を拭ってやる。
「……なんだか、世話焼きの兄と妹みたいだな」
ぼそり、とつぶやいたアーリンの言葉に、
「こんな騒がしい妹はいらねえよ!」
「こんな甲斐性のないお兄ちゃんはいらないのニャ!」
二人同時に返事をする。
「甲斐性、ってお前、そんな言葉、どこで覚えて来た? ん?」
「ノルンは騒がしくないのニャ〜」
デルサスにむにむにと頬を引っ張られたノルンは、短い手と脚を振り回して応戦しようとする。
「んな生意気ばっかり言ってると、飲めないくらいにミルクを熱くしちまうぞ」
「んニャ〜、デルサスの卑怯者〜。えい、しっぽアターック!」
身体をひねり、しっぽをビシビシとデルサスの腰に打ち付ける。
じゃれ合っているデルサスとノルンを横目で見ながら、アーリンは静かにため息を吐いた。
◆◇◆◇◆
テントから少し離れた、見晴らしのいい崖の上にあるごつごつとした岩場。クレインの身長程の
高さのその岩の上に、リイタは小さく背を丸めて座っていた。
崖の下に広がる暗い森の方を向いているリイタの後ろ姿を見て、クレインは息を飲んだ。
濃い紺色の空気の中、わずかな月の光を浴びてほんのりと光っているやわらかな羽根。まるで
力なくうなだれてしまっているような羽根からは、他人を拒絶するような冷たい印象を受ける。
色の濃い長い髪、細い肩、背中を覆っている純白の羽根。普段、力ずくでモンスターを
叩きのめしたり、何かにつけてはクレインに食ってかかるリイタ。生命力にあふれる明るい
笑顔を見せる彼女と、今、目の前にいる儚げな少女は同じ人物なのだろうか。
「……何しに来たのよ」
振り返りもせずにリイタがつぶやいた声に、クレインはびくり、と身をすくませる。
「後ろからこっそり忍び寄ろうなんて、いい趣味じゃないわね。でも全然だめ。気配丸わかりよ」
棘のある口調。
「あっ、いや、あの。こっそりするつもりじゃなくて、その」
リイタの口調に押され、思わず及び腰になる。
「……ええっと、迎えに来たんだ。ここは寒いし、テントに帰ろう」
「迎えなんか無くても、帰りたい時に帰るわよ。あんたこそ、さっさと帰ったら?」
「そんな言い方しなくてもいいだろう? オレは心配して」
「別に心配してくれなんて頼んだ覚えない」
「何だよ」
クレインはごつごつとした岩に手をかけてそこによじ登ると、リイタに歩み寄った。
リイタは顔を見られないよう、彼に背を向け続ける。
「オレだけじゃない、みんな心配してるんだぞ。言葉に出さないだけで、デルサスなんか……」
「だから、心配してくれなんて頼んでないでしょ! ほっといてよ、あたしの事は!」
「リイタ!」
かっとなり、リイタの肩に手をかけて強引にこちらを向かせる。
「あ……っ」
リイタの目からは大粒の涙があふれていた。多分クレインが来る前からずっと泣いていたのだろう、
頬はびしょ濡れ、目ははれぼったく、赤くなっている。
「うわ。最悪」
クレインの手を振り払い、うつむいた顔を両手で隠しながらまた背中を向けた。
「ご、ごめん……オレ」
きつい言葉とはうらはらに、リイタの表情は深い悲しみと寂しさをたたえているように見えた。
「最悪。負けず嫌い君にこんなとこ見られるなんて」
顔をごしごしとこすり、わざとらしい程に大きなため息を吐く。
「あの……、リイタ? これ」
クレインはズボンのポケットを探る。ハンカチを取り出し、それがあまり汚れていないのを
確かめてからリイタの手の甲に押し付ける。
「ん」
もしかしたらハンカチも投げ捨てられるかもしれないと思ったが、リイタは素直にそれを受け取った。
「あんた、いつもハンカチ持ってるんだ。男のくせに、マメね」
遠慮もせず、それでごしごしと顔をこする。
「お前は持ってないのかよ」
「今日はたまたま忘れたのよ」
相変わらずクレインから顔を背けたままで、リイタは目を拭ったハンカチの両端を指先でつまみ、
持ち上げてひらひらと風に当てる。
「ほんと、最悪」
ぐすっ、と鼻をすするリイタの言葉は、きついながらも険が減ったように思えて、クレインは
少しだけ安心した。
「そんなに、何回も最悪最悪言うなよ。オレだってさ、自分があんまり、その、何て言うか
リイタの役に立ってない事は分かってるよ。でもさ」
リイタはゆっくりと、首を左右に振った。
「ううん。クレインは頑張ってる、知ってるよ。最悪なのは、あたし」
ハンカチをたたみ、それをもう一度顔に当てる。
「クレインも、他のみんなにも。迷惑かけて心配かけてるのに、それでも強がってるあたしが
一番馬鹿だって分かってるよ。でも」
片手で肩にかかっている長い髪を払う。
「赤水晶無くなって、あたしの身体の中カラッポだから。……強がりでも、何にも無いよりは
マシだから」
そうつぶやくと、勢いよく立ち上がった。
「さて! せっかく負けず嫌い君が迎えに来てくれた事だし、キミの顔を立てて帰ってあげると
しましょうか」
うつむいたまま、クレインに顔を見せずに彼の脇をすり抜けようとする。
ふわりとした白い羽根が、自分の目の前を通り過ぎていく。
(……リイタが、消えてしまう)
ふいにそんな印象を覚えて、自分でも意識しないままにリイタの肩に手をかけ、彼女を振り向かせる。
「なに……」
まだ残っている涙で濡れている瞳を見つめる。そして、クレインはリイタの身体をしっかりと抱きしめた。
「……」
リイタの細い身体が緊張し、こわばっている。かすかな風に揺れる羽根と長い髪が、彼女の
背中に回したクレインの手をくすぐる。
「どこにも、いかないよな?」
「クレ……イン?」
「消えちまったりしないよな? オレ……オレは」
片手でリイタの背中を抱いたまま、もう片方の手のひらで彼女の頭をそっと押さえる。夜の空気に
さらされて冷たくなった頬に自分の頬を合わせたが、リイタはそれを拒まなかった。
リイタは無言のままでゆっくりと手を持ち上げる。きゅっ、とほんの一瞬だけ、クレインの
身体を抱きしめ、それと同時に少しだけ背伸びをすると、自分から頬を擦り付けた。
次の瞬間、リイタは身をよじってクレインの手を振りほどく。
「えっ?」
クレインの背中に回された腕も外される。クレインに渡されたハンカチを持ったままの手が
握り拳を作り、とん、と軽く彼の胸をこづいた。
「リ、リイタ」
「ふん」
少し拗ねたようなリイタの顔。
「ごめん、オレ。急に、あの」
突然、彼女を抱きしめてしまった事を謝ろうとするが、うまく言葉にできない。頬が熱くなり、
自分が顔を赤らめているだろう事を意識して、余計におろおろしてしまう。
「あんたみたいな弱虫君置いて、どっか行ける訳ないじゃない」
ふい、と横を向いてしまうリイタの頬も、ほんのりと赤く染まっている。
「寒くなってきたね。帰ろ」
クレインの返事も待たずに歩き出すが、少し進んだ所で足を止める。
「クレイン、先に降りて」
「えっ?」
「ここ、高いから降りる時危ないじゃない。手、貸して」
普段だったら大きな岩だろうが小さな崖だろうが、ひょいひょいと平気で飛び降りるリイタ。
今二人がいる場所も、たいした高さではない。一人でも降りられるだろう、そう言いかける前に
リイタがこちらを向いた。
拗ねた顔だと思っていたのは、彼女なりの不器用な照れ隠しだったのだろうか。
首を小さくかたむけたリイタの瞳は、ほんの少しだけ、クレインに甘えているように見える。
「ああ、分かった」
クレインは頷くと、言われた通りに先に岩から飛び降りる。それからリイタの方へと向き直り、
両手を大きく広げた。
「片手だけで良かったのに」
リイタはそうつぶやいてから、クレインの腕の中めがけて飛び降りた。
「……おっと」
「嘘っ」
飛び降りると同時に、クレインが自分を受け止めてくれると確信していたリイタは当然のように
ためらいもせずに彼に体重を預けた。
「あ、危ない、リイタ、うわっ」
しかし、クレインはよろよろと後ずさると、バランスを崩して地面にしりもちをついてしまう。
つられてリイタも倒れ込み、膝をついてしまった。
「……し、信じらんない」
地面にへたり込むクレイン、彼の両脚の上にまたがり、覆い被さるように彼にしがみつくリイタ。
「だって、お前がこんな勢いよく降りてくると思わなかったから」
「男なら男らしく、少しくらい踏ん張りなさいよねっ!」
クレインとリイタの顔は、どちらかが少し前に出れば触れてしまいそうな程に近づいている。
「……」
何か言おうと思ったのか、リイタは口を開いたが、すぐにそのくちびるを閉じてしまった。
そんなリイタを見て、クレインも何も言えなくなってしまう。
そのまま、二人はじっと見つめ合っていた。
クレインの頭が少しだけ揺れ、わずかにリイタとの距離を縮めたように見えた。
「……」
ずっと、無言のまま。それ以上、二人の顔が近づく事はなかった。
「……ふんっ」
やがて、リイタは小さなため息をついた。
「リイタ」
「何でもない。地面に飛び降りた時、ちょっと脚が痺れたから立てなかっただけよ」
クレインから離れ、ゆっくりと立ち上がると土が付いてしまった膝を軽く手で払う。
「信じらんない」
もう一度言うと、さっさと歩き出してしまう。
「リイタ、ごめんってば」
「……キスくらい、しない? 普通」
聞き逃しても仕方がないくらいの小さな声がクレインの耳に届いた、ような気がした。
「えっ」
慌てて立ち上がったクレインは、数歩先に行ってしまったリイタを追う。
(オレの、聞き間違いだよな。でも)
「リイタ」
リイタの隣りに並ぶが、つん、と彼女は顔を背ける。
「リイタってば」
重ねて声をかけると、そっぽを向いたままながらもリイタは立ち止まった。
「オレさ、頑張るから。何が何でも赤水晶、作ってみせるから」
「何よ、突然」
「でも、赤水晶があっても無くてもリイタはリイタだし、リイタは決してカラッポだなんて、
そんな事はないから」
「……あたし」
再び開いたくちびるからこぼれた言葉は、消えてしまいそうな程に弱々しく震えていた。
「あたし、みんなに迷惑かけて、今だって、身体……、ぼろぼろだし」
ふわり、と白い羽根が揺れる。
「リイタの事、迷惑がってる奴なんかいないよ」
できる限りに優しい声を作りながら、そっとリイタを振り向かせる。
「だって、あたしがムチャして体力が無くなる度に、身体治すのにポポやウルやプルーア……
マナ達みんなにも負担かけて」
リイタの瞳には、うっすらと涙が滲んでいる。
「負担、なんて感じてないと思うよ。ポポなんか、リイタの手伝いできるの嬉しいって
はしゃぐくらいじゃないか」
正面を向いたリイタの肩に、クレインはそっと手を置いた。
「みんな、リイタの事が大好きなんだよ」
「……」
リイタのくちびるが開きかけたが、そこから声は出てこない。
「だから、大丈夫だよ」
「あ、あり……」
言いかける言葉が震えている。
リイタは、しっかりとくちびるを閉じた。そして、自分からもクレインの肩に手を置く。
身体を前に倒し、くちびるをほんのわずか、クレインの頬に触れさせた。
「……えいっ」
「うっ」
そしてすぐにクレインの脚を蹴飛ばすと、彼から離れてしまう。
「い、痛いだろっ! 何するんだよ、リイタっ」
「何って、別に。帰ろ」
頬を真っ赤に染めたリイタは、すたすたと歩き出してしまう。
「いてぇなあ」
思わずしゃがみ込み、リイタに蹴られた向こうずねを手のひらで覆う。それからもう片方の手で
リイタがくちびるを触れた、自分の頬をそっと包んでみる。
「何してんの、早く行くわよ」
「あ、ああ」
くちびるのかすかな感触の余韻に浸る事も許されず、リイタに急き立てられたクレインは
慌てて立ち上がると彼女の後を追った。
「リイタ」
「……」
「リイタってば」
「……ふん」
早足になっているリイタの行為の意味を問いただしてみたかったが、頬をふくらませた彼女は
決して本意を語ってはくれないだろう。
「リイタ!」
「何度も呼ばないで」
「だって、リイタが先に行っちゃうから」
クレインは小走りになってリイタに追いつく。
「あのさ」
「だから、何?」
歩調を緩めたリイタの正面に回り込み、彼女の顔に自分の顔を近づける。先刻されたように、
今度は自分の方からくちびるを彼女の頬に触れさせた。
「……」
リイタの足が完全に止まる。
やがて、ゆっくりとクレインがくちびるを離した。
「……ばか」
クレインが、離れてから。顔を真っ赤にしたリイタは一言そう言い放つと、彼に背を向けて歩き出した。
「リイタ……」
彼女の機嫌を損ねてしまったのかと不安になってしまうクレインの視線の先で、リイタの
真っ白い羽根が揺れている。
先ほど、背を丸めて岩の上に座っていた時の見かけとは全く印象が変わっている。そうあって
欲しいと思うクレインの願望が混じっているのかもしれないが、揺れる羽根のリズムは
どこか楽しげで、うきうきと踊っているようにさえ見える。
「お前の羽根、きれいだな」
ぽつり、とつぶやくと、リイタが足を止め、振り向いた。
「うっ」
また蹴られるのか、今度は殴られでもするのだろうかとクレインは思わず身構える。
「……ありがと」
しかし、リイタは照れたように微笑んだだけだった。
月明かりの下で、眩しいくらいに白く光る羽根。少し大人びて見える、それでもいつもの
元気なリイタの笑顔。
「うん、すごくきれいだ」
羽根も、リイタ自身も。
彼女の姿を見ていたくて、クレインはリイタから数歩遅れた場所を歩いた。
「ただいま……」
テントまでの短い距離を歩き終え、眠っているかもしれない仲間を起こさないように、
リイタは小声で挨拶をしてから中に入って行った。
クレインも続こうとすると、テントに入ったばかりなのにすぐ出て行こうと回れ右したリイタに
ぶつかりそうになる。
「リイタ?」
「……し、信じらんない」
一言短く言うと、口元を押さえて元来た道を走っていく。
「どうしたんだ?」
しばらくすると、リイタが駆けて行った方から押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「何か、おかしい事でも……」
クレインはテントの入口にかかっている扉代わりの布を持ち上げ、ひょい、と中をのぞき込む。
そこには、ノルンを真ん中に挟み、仲良く川の字になって眠っているデルサスとアーリンがいた。
「くっ……」
デルサスはともかくとして、アーリンが。よく見ると、デルサスもアーリンも、ノルンに
しっかりと手を握られている。
クレインはリイタがしていたように自分の口を押さえ、リイタの方へ走っていった。
「くっ、あ、あはは……、あ、あり得ない」
しゃがみ込み、お腹と口を押さえ、声が高くならないようにと気を付けてはいるが、
それでも笑いは収まらない。
「リ、リイタ……あはは」
リイタの隣りにしゃがんだクレインは、同じように笑いが漏れてしまう。
「あんたも見た?」
「見た」
「アーリンがノルンと手つないでるなんて……ちょっとあり得ないよね。しかも川の字」
笑いすぎたリイタは、息も切れ切れになる。声がひっくり返り、それが自分でもおかしいのか
また笑いの発作が続く。
「つないでると言うか、ノルンにつかまえられてるみたいだったけどな」
二人で目を見合わせ、それからまた爆笑する。
「あっ、あはは、お、お腹痛い」
「オレも、ああ、涙出てきた」
テントに戻る前に真面目なやりとりをした反動なのか、笑いが収まるまでにはかなりに時間がかかった。
「……帰ろう。いつまでもこんなとこで笑ってばかりらんないわ。寒くて風邪引いちゃう」
そう言いつつも、まだ小さく笑いが漏れる。
「そうだな。で、でも、帰ったらまだ、ノルンとデルサスとアーリンが……」
「い、言わないでよっ。また笑いが……あははは」
リイタは笑いすぎて涙が滲んだ目をこすった。
「ああ、笑いすぎたらお腹空いちゃったよ」
「そう言えば、オレもメシの途中だったな。もう片づけられちゃったかな」
たまにこぼれてしまう笑いを押さえ付けながら、二人は再びテントに戻った。
まだ手をつないでいる三人にはなるべく目を向けないように、火のそばに座って冷えた身体を温める。
「あ、これ」
火の側には、鍋と皿が数枚置かれていた。それぞれ、きれいな布がかかっている。
「ゴハンかな」
「そうみたい。あっ」
リイタが皿を持ち上げると、メモが一枚落ちてきた。
メモにはデルサスの字で、『あっためて喰え』、ぶっきらぼうにそう書き殴ってあった。更に
その下には、『ノルンのお友達からもらったデザート、リイタにあげるから元気出すのニャ』
丸っこい字で、そう小さく書いてあった。
「……えへ」
ノルンからのプレゼントらしいパンプキンタルトの乗った皿を見て、
「うん、元気出(で)そう」
リイタはにっこりと微笑んだ。
「デザートの前に食事にしようか」
「うん」
鍋にかかっているふきんを取り、美味しそうなシチューを火にかける。シチューが温まって
来るにつれ、食欲をそそる香りが立ち上ってくる。
「美味しそうだね」
「そうだね」
シチューが熱く煮えると、クレインは深い皿によそって、それをリイタに手渡した。
「いただきます」
クレインが自分の分のシチューの皿にスプーンを入れる。
「いただきまーす」
リイタはシチューの皿を持ったまま、クレインの隣りへと寄ってきた。
身体がぶつかる程近くは無いが、ときおり揺れるリイタの羽根がクレインの肩をかする距離。
彼女の羽根が自分に触れる、ほんの短い時間。
そんな距離感が心地よい、と思いながら、クレインはシチューを頬張った。