「もう、このお店で働くなんて、できないわっ!」
お客様の姿が途切れたヴィオラーデン。カウンターの前で、突然ブリギットは彼女らしくない
大声を出した。
「ブ、ブリギット?」
伝統ケーキを調合していた手を止め、ヴィオが振り向く。
「ごめんなさい、ヴィオラート。働く予定だった日数分の賃金はお返しするわ。だから、
今日限りで解雇してちょうだい」
「そっ、そんなあ!」
ハーフェンにあるブリギットの実家では、お父様が商売を営んでいるらしい。
頭のいいブリギットは子供の頃から父の経営手腕を見て無意識のうちに商売上必要な事柄を
学び取っていたのだろう、彼女に店番を任せると客の評判も良く、追随して売上も順調に
伸びるようになった。
最初の頃、バルテルには人見知りから来た苦手意識を持っていたようだったが、閉店後に
一緒に食事をしたり、商品の荷物の上げ下ろしや店の細かい手伝いをしてもらったりして
いるうちに、だんだんと打ち解けるようになっていた。
それなのに、何故今更。
「ね、ねえ、ブリギット? あたし、何か変な事とか言った?」
「そう言うんじゃないわ」
ブリギットは無表情を装っている。そこから彼女の真意は読み取れない。
「お店のお給料とかで納得いかないとかあるの? そうだよね、ブリギットはとってもよく
働いてくれるから、もっと払ってもいいくらいだもんね」
「お給金も関係ないわ。あれは雇用される者と雇い主の関係をはっきりさせる為に形式上
頂いているだけだもの。私、お金なんて売るくらい持ってるし」
「あ、うーん、ええと」
ブリギットの不満がどこにあるのか分からず、ヴィオは首をかしげる。
「……あたしの事、嫌いになった?」
小さな、寂しそうな声。
「な、なんでよ。あんたみたいなおめでたい子の事、嫌いになる人なんてそうそういないと
思うけど?」
ヴィオの声を払うように、ぱたぱた、とブリギットが手を振ってみせる。
「んー、じゃあ、あ、分かった」
ぱっ、とヴィオが笑顔に戻る。
「えっ?」
「ブリギット、おやつが足らないんでしょう! ちょっと待っててね、今作ってる伝統ケーキ、
できあがったらブリギットにはいつもより一切れ多くあげるから……」
「……!」
ブリギットはくちびるを噛むと、小走りでドアの方へ走っていく。
「あ、ま、待ってっ!」
「さよなら、ヴィオラート」
ブリギットがドアノブに手をかけようとすると、外側からがちゃり、とドアが開いた。
「おや、ブリギット。こんばんは」
「ロ、ロードフリード様!」
店に入って来ようとするロードフリードとぶつかりそうになったブリギットが顔を赤らめる。
しかし、
「ロードフリード様、こんにちは。ご機嫌よう」
軽く会釈して、そのまま店を出て行ってしまった。
「ブリギット……?」
すれ違いざまに見た、怒っているようなブリギットの表情。
「ロードフリードさん、ブリギットが〜」
泣きそうになっているヴィオの顔。
「ヴィオ、どうしたんだい?」
「ブリギットが、急にお店番辞めるって。理由聞いたけど、話してくれなくて。あ、あたし、
追いかけて来ます」
あわあわ、とおろおろ、の混じったようなヴィオは、駆け出そうとして勢い余って床につんのめる。
「あう」
ぐるぐる、と大きく腕を回し、なんとかバランスを取って体勢を持ちこたえた。
「大丈夫かい? ヴィオ」
「は、はい」
「俺が行こうか? 何だか揉めているみたいだし、だったら第三者が入った方がいいかもしれない」
「本当ですか? もし、あたしに原因があったら謝ります。だから……」
すがるような瞳でロードフリードを見つめる。
「ああ。必ずブリギットを連れ戻してくるよ。それじゃ、行ってくる」
身をひるがえすと、ロードフリードは駆け足で店を出て行った。
ヴィオの店の外、井戸の周りをきょろきょろと見回す。
「ええと……、遠くへは行っていないと思うんだが。家に帰ったかな?」
村長の家の前を通り過ぎ、ブリギットの館の方へと向かう。
「あ、いた」
ブリギットは、きれいに整備された水路の手すりに寄りかかり、物憂げな顔をしている。
「……ブリギット?」
そっと名前を呼ぶと、驚いたように振り返った。
「ロードフリード……様?」
陶器のような白い頬。透き通る蒼い瞳には、涙がうっすらと滲んでいる。
「ブリギット、ヴィオが心配しているよ。店へ帰ろう」
優しく声をかけながら近づくと、首を振っていやいやをする。
「喧嘩でも、したのかい? だったら、仲直りしなきゃ」
「喧嘩じゃ、ないですわ」
懐からきれいな刺繍の入った白いハンカチを取りだしたブリギットは、それでそっと目元を覆った。
「働くのに都合が悪いんだったら、ヴィオと話し合ってお互いの状況を改善していかないと」
ブリギットは、ただ黙ってうつむいている。
「ヴィオが、何か気に障るような事を言ったのかい? もしそうだとしても、決して悪気があって
言う子じゃないんだ、許してやってくれないか」
「あの子が、人を傷付けたりするような子じゃないって言うのは私だって知ってますわ。
それに、そんな事でも……」
ゆっくりとため息を吐く。
「申し訳ありません、ロードフリード様。気を遣わせてしまった上に、なんだか生意気な
言い方をしてしまって」
そう言って、まだ涙の乾かない顔でにっこりと微笑んでみせる。
「ただ本当に、私の一方的な我が儘なんです。本当につまらなくて、くだらない事で……、
恥ずかしくてヴィオラートには言えないわ」
ブリギットはゆっくりと目を伏せる。
「だったら、なおさらだ。店に帰ろう、二人で仲直りしなきゃ」
「そうですよね、分かってはいるんですけれど」
いつまでも煮え切らない態度のブリギットは、消えそうな声でつぶやく。
「ブリギット」
少しだけ、ロードフリードがたしなめるような声を作ると、ブリギットは小さく身をすくめた。
「俺だけじゃない、ヴィオも心配しているんだよ」
「そうですよね、でも」
「そうだ。もし、良かったら、その理由、ブリギットが悩んでいる理由を教えてくれないかな?
俺も、もしかしたら力になれるかもしれないし」
「ロードフリード様……」
ブリギットの頬が、ほんのりと赤く染まっていく。
「でも……、いいえ、そんな事、言えませんわ。でも、これ以上ロードフリード様に心配を
おかけするなんて、私」
そのまま、ブリギットは黙り込んでしまう。
やがて、ロードフリードがもう一度声をかけようとした矢先にブリギットがぽつり、としゃべり始めた。
「……美味しすぎるんですの」
「えっ?」
聞き取った言葉が、今この場にはふさわしくないような気がしてロードフリードは聞き直した。
「ヴィオラートのお店でお手伝いをしていると、必ずおやつが出るんです。それが美味しすぎて」
「美味しい、んだったら、別にいいじゃないか」
ブリギットが左右に首を振る。
「美味しすぎるから、ついつい食べ過ぎてしまって、それで」
「まさか、太った、とか」
ロードフリードの不用意な一言に、わっ、とブリギットは泣き出してしまう。
「やっぱり! やっぱり、ロードフリード様にも私は太って見えるんですね」
ハンカチに顔を埋め、泣きじゃくる。
「えっ? いや、そんな事はないよ、全然だよ、ブリギット。そもそも、女の子は少し
ふっくらとしていた方が……」
「ふっくらって! 酷い、酷いですわ、ロードフリード様!」
体重に気を遣っている女の子にとって、『ふっくら』は『デブ』と同意語だった。
「このままヴィオラートのお手伝いをしていたら、どんどんどんどん太って、きっと山道を歩くより
転がり落ちた方が早いような肉だんごになってしまいますわ! 私、そんなの耐えられない!」
いくらケーキを食べたからと言って肉だんごになるとは思えないが、ブリギットにとっては
そこまで思い詰める程に真剣な悩みなのだろう。
「うーん……、参ったな。おやつを遠慮する、って言うのはダメなのかい?」
ブリギットが濡れた目を上げる。
「ロードフリード様、ヴィオラートが作るケーキを召し上がった事、ありますわよね?」
こくん、と頷く。
「表面はつやつやと照りがあり、中はしっとりふわふわで。口に入れた瞬間、幸せが身体中に
広がるような……、あんなケーキを目の前に出されて、誘惑に勝てると思います?」
そこまでケーキに思い入れはないが、夢見るようなブリギットに反論するような馬鹿な真似はしない。
「ヴィオラートのお店にいる限り、私はあのケーキを食べない訳にはいかないんです。そして
それは、その、ええっと、私の体重が……、という訳で、もうヴィオラーデンのお手伝いは、
どうしてもできません」
きっぱりと言い切って、くちびるを噛む。
「ええっと、困ったな」
ヴィオに、ブリギットを連れ戻す、と言ってしまった手前、このまま彼女を放っていく訳には
いかない。しかし、ブリギットの意志は強く、明確な解決策を提示しなければ納得しないだろう。
「ええと……」
そこで、ロードフリードは単純な事実に思い当たった。
「運動、すればいいじゃないか」
「えっ?」
「食べたら、運動。そうすれば太る事もないだろう」
ブリギットが神妙な表情になったので、
「ああ、もちろん君は全然太ってなんかいないけれどね。それでも、あくまでも気になるのなら、
の話しだよ」
慌てて付け加える。
「ブリギットは、体術を学んでいるんだろう? 一緒にヴィオの採取に付き合った時に、
ぷにぷにを拳で倒すのを見せてもらったからね」
「まあ、あれは……お恥ずかしいですわ」
頬に手を当て、しおらしい素振りをしてみせる。
「いや、たいした物だよ。だから、手伝いで何ヶ月か店番をしたら、その後で護衛に
雇ってもらうといい。ヴィオの材料採取は、森に入ったり、山に登ったりとなかなか
ハードだからね、きっといい運動になるよ」
「そう……、かもしれませんわね」
思案げに首をかしげる。
「きちんと運動をすれば、美味しいケーキをいくら食べても平気だよ。ね?」
「あ、あの」
ためらいがちにブリギットがロードフリードの顔を見る。
「その時は、ロードフリード様もご一緒して頂けます?」
「えっ?」
「採取に行く時。私と、ヴィオラートだけでは不安です。ロードフリード様のように
腕の立つ方が来て下されば、安心してダイエット……、運動に励めるんですけれど」
「ああ、もちろん。僕で役に立つなら」
ぱああっ、とブリギットの顔が明るくなる。
「だから、店に戻って、お店番を続けてくれるよね?」
「ええ、分かりましたわ」
ブリギットが頷くのを見て、ロードフリードは胸をなで下ろした。
「それじゃ、一緒に帰ろう。ヴィオが待ってるよ」
「はい、ロードフリード様」
「ああ、良かったぁ、ブリギット戻って来てくれたんだね!」
ヴィオラーデンのドアを開ける。ブリギットを見た途端、ヴィオは泣きそうな笑顔になった。
「……先程は、ごめんなさい。店番、続けさせて頂くわ」
ぺこり、と頭を下げる。
「うん、ありがとうブリギット。ありがとう、ロードフリードさん」
「気にしなくていいよ、ヴィオ」
ロードフリードがヴィオに優しく笑いかけるのを見て、ブリギットはほんの少しだけ
神妙な面持ちになったが、すぐにすました表情に戻る。
「あ、それでね」
たたっ、とヴィオがプチ氷室に駆け寄る。
「伝統ケーキ。できあがったから、ブリギットが戻って来たら一緒に食べようと思って
冷やしておいたの。いつもより美味しく作れたと思うんだ……、ね、みんなで食べよ?」
プチ氷室から伝統ケーキを取り出し、テーブルの上に置く。
はっ、とロードフリードがブリギットの顔を見る。その視線に気付いたブリギットは、
ロードフリードの方を向いて、にっこりと笑った。
ヴィオの方に向き直り、
「ええ、そうね。とっても美味しそうだし、頂こうかしら。私、お茶を淹れるわね」
そう言うと、やかんを火にかけにキッチンへ行く。
「うん、ありがとう……、ブリギットには一番大きく切ってあげるね」
ヴィオは明らかに大きさに差を付けてケーキを切り分けている。
「それでヴィオラート、私の店番が終わったら、あなたが採取に行く時に、護衛に
雇ってもらえないかしら?」
ポットにお茶の葉を入れ、こぽこぽ、と沸いたお湯を注ぎながらブリギットがつぶやく。
その途中、ちらり、とロードフリードに目をやる。
「ああ、できれば俺も一緒にね」
「えっ、ほんと? ブリギットとロードフリードさんが来てくれたら、あたしもすっごく
嬉しい! はい、これブリギットのケーキね」
ポットと温めたカップをテーブルに運び、椅子に座ったブリギットの前に、もとのケーキの
半分くらいの大きさのかたまりが置かれる。
「足りなかったらまだいっぱいあるから、おかわりしてね」
ケーキから漂う、ふわり、とした甘いミルクの香り。その香りを胸一杯に吸い込んで、
ブリギットは少し困ったように、『仕方ないわね』とでも言いたげに微笑んだ。