● 意地悪の境界線(1/2) ●

ヴェルンの採取場。ピンク色のくまさんはユーディーめがけ、中身のたっぷり入ったワインの
ボトルを振り回した。
「きゃああっ!」
深みのあるえんじ色の液体はしっとりとした芳香を放ちながら宙を舞う。ワインの大部分は
くまさんの思惑通りユーディーの全身に降りかかり、彼女は濃いアルコール臭に包まれる。
「ユーディット、大丈夫か?」
薄緑色のぷにぷにをナイフで威嚇しながら、ヴィトスがユーディーを振り返った。
「う、うん、へい……き、けふっ、けふん」
落ち着く為にゆっくりとした呼吸をしようと思ったが、自分の身体から立ち上るワインの香りを
思い切り吸い込んでしまう。

「ユーディット!」
「平気、平気」
護衛に付いてくれているヴィトスを心配させまいと、ユーディーは自分にワインをかけた
くまさんを杖で叩こうとした。
「……あれ? あら、らら」
しかし、ワインを浴びせられ、すっかり酔っぱらってしまったユーディーの足元はおぼつかない。
「ああ〜……」
くまさんの頭をめがけて振り下ろした筈の木の杖は、くまさんにかすりもせずに、そのまま
地面へと落ちていってしまう。

「きゃう」
がいん、と音を立て地面を打った杖から鈍い振動が伝わり、手が痺れてしまう。
「痛いよ〜」
杖を取り落としてしまったユーディーは、背中を丸めて自分の手をさすり始めた。
「ユーディット、気を付けろ!」
先ほど、ユーディーにワインをかけたくまさんが彼女めがけておそいかかってくる。
「きゃっ、あっ、あ」
杖を拾おうとしたが間に合わず、ユーディーは両手で頭をかばうと、そのままぺたり、と
地面にしゃがみ込んでしまった。

「カーロナーゲル!」
ヴィトスは数歩駆け出し、前足を振り上げたくまさんに鋭いナイフの一閃を浴びせる。
どすん、と鈍い音を立ててくまさんが倒れると、そのままユーディーをかばうように彼女の
前に立ちはだかり、
「ユーディット、杖を拾って呪文を使うんだ。ぷにぷには任せた」
短く指示をする。
「あ、うん、分かった」
直接攻撃は当たらなくても、呪文なら使えるかもしれない。ユーディーは座ったまま、
おぼつかない手で杖を探り、それを握ると弱々しく目の前に掲げる。

「……エンゲルスピリット!」
呪文と共に杖を振り下ろすが、
「ユーディット、ぷにぷにに精神攻撃は効かない!」
ヴィトスの言う通り、ぷにぷにには全くダメージがない。
「ん〜? あ、フレイムフォーゲルだ、フレイムフォーゲル。間違えちゃった」
ユーディーが杖を構え直し、炎を操る呪文を唱える為に神経を集中しようとする。
「甘いな」
しかし、ユーディーがあちらこちらに飛びそうになる意識を持てあましているうちに、ヴィトスは
さっさとぷにぷにを倒してしまった。

「あ〜〜、ひどいっ! あたしのエモノよっ」
地面に倒れてしまったぷにぷにを見て、ユーディーは不機嫌そうに杖を振り回した。杖の先から、
ぷすん、と不完全燃焼した魔法の炎のけむりが薄く立ち上る。
「次の呪文を待っていたら、余計なダメージを受けていたよ」
ナイフをしまったヴィトスは、まだ座っているユーディーに手を差し出した。しかし、ユーディーは
その手をぼんやりと見つめるだけで、特に行動を起こそうとはしない。
「ほら」
「あっ、ああ、そうか」
重ねて促すと、ユーディーはやっと自分の手を伸ばす。

「はい、勝利の握手。やったね!」
ヴィトスの手をしっかりと握り、勢いよく上下に振った。
「……いや、そうじゃなくて。このままいつまでも座っている気なのか、ユーディット?」
「んにゃ?」
声をかけられ、ユーディーはヴィトスを見上げた。その目はとろんと眠そうで、わずかな
涙でうるんでいる。
「僕の手につかまっていいから、そろそろ立ち上がってはくれないかな」
「あっ、そうか。立つよ。立ち上がりますよ〜、お、おっとっと」
よろめきながら身体を起こすが、ヴィトスの手を握ったまま彼の胸に倒れ込んでしまう。

「お〜?」
ヴィトスにしがみついたまま彼を見上げるユーディーの頬は、ほんのり赤く染まっている。
「真っ直ぐ歩けるか? ……無理そうかな」
「歩けるわよっ! バカにしないでよね、ほら」
とん、と軽くヴィトスを突き飛ばしてから、ユーディーはよろよろと歩き出す。その足取りは
くねくねと蛇行している。
「ほら、危ない」
茂みに突っ込みそうになる所を、間一髪ヴィトスにつかまえられる。
「無理をするな、ユーディット。僕が支えていてあげるから、どこか安全な場所に行って少し休もう」
「無理してないよ! 真っ直ぐ歩けてるじゃない、あの木があたしにぶつかって来ようとしただけで」
太い木を指さしたユーディーは、少し怒ったような顔をする。

「はいはい」
酔ったユーディーの取るおかしな言動に笑いを噛み殺しながら、それでも酔っぱらいにあえて
逆らう事はしない。ヴィトスはユーディーの腕を取ると、採取場の奥の方へと歩いていった。
「確か、ここら辺に石造りのサークルがあってね。そこは不思議とモンスターが近寄って来ない
 場所なんだ」
「んん、知ってるかも。石柱が立ってるとこだよね? あっ、妖精の日傘。採取、採取〜」
いい香りのする妖精の日傘が、あちこちの木の根元に生えている。その茶色いキノコの方へ
手を伸ばそうとして道を外れそうになるユーディーの首根っこをつかみ、何とか彼女の歩く軌道を
修正させながら目的の場所へたどり着く。

「ほら、ユーディット、ここに座って」
目に眩しいくらいの若い緑色や、いつ頃から生えているのか見当も付かないくらいの古い緑色。
様々に生い茂る木とやわらかい下生えに囲まれた、小さな空き地の真ん中にぽつんと存在している
不思議な石造りの円陣は、遙か昔に何かの魔法儀式にでも使われたのか、今は霞んでしまう
くらいに薄くなった魔法陣らしき紋様が刻まれている。
草の上か、石の上か。ユーディーが好きな方に座らせようと、草と平らかな石の床の境界線を
漠然と指さすが、
「やーん、キノコ〜、キノコ欲しかったのに〜」
ユーディーは先ほどの妖精の日傘に未練があるのか、もと来た道を帰ろうとする。

「ユーディット、酔ったままの状態でモンスターに遭うと危ないぞ」
「酔ってないよ! あたしはもう、ぜーんぜん酔ってませんよ!」
ふらふらと揺れているユーディーの息は充分にアルコール臭い。
「……休みを取る前に採取をしたら、その分植物の鮮度が落ちてしまうぞ。帰り際に採取
 した方が効率いいんじゃないのか?」
「んー」
しばらく黙り込んでしまうが、
「そっか。ヴィトス頭いいね」
何とか納得したのか、うんうん、と頷くと、ぺたんと石の上に座った。

やれやれ、と口の中でつぶやきながらヴィトスも腰を下ろす。と、ユーディーは座ったままで
ずりずりとどこかへ行こうとする。
「ユーディット、どこへ行くんだ。遠くへ行くと危ないぞ」
「遠くは行かないよ、これ」
丸い形をした石のサークルの四隅に、それぞれ石の柱が立っている。その一本をユーディーは
指さした。
「これ。冷たくて気持ちよさそうなの」
対して太くはない石柱のそばによると、ユーディーはその柱を抱きしめた。
「うーっ。ひんやり」
酔って熱くなってしまった額を石に付けると、冷えて気持ちがいいのか嬉しそうな顔をする。

「ユーディット、何も石の柱におでこをくっつけなくても」
ヴィトスはやわらかい布を懐から出すと、それに軽く水筒の水を含ませた。
「ほら」
立ち上がると、幸せそうに柱に抱き付いているユーディーの後ろに近付き、彼女のほてった耳元に
いきなり湿った布を押し当てた。
「みぎゃっ!」
冷たい感覚に変な悲鳴を上げると、ユーディーは驚いた顔で振り向く。
「何するのよっ」
「石よりもこっちの方が気持ちいいと思うけれどね」

耳から布を離すと、それをユーディーに渡す。
「うーっ」
拗ねた声を出しながらも素直に濡れた布を受け取ったユーディーは、それを両手に持って
ゆっくりと自分の額に押し当てた。
「うーっ。気持ちいい」
「そうか、それは良かった」
ヴィトスはユーディーの隣りに腰を下ろした。
「でも、石の柱も捨てがたいんだよなあ」
ちらり、と柱に目をやる。
「ユーディット、その石柱、ほこりでずいぶん汚れていたようだよ。君のおでこ、真っ黒だ」
「嘘っ」

慌ててごしごしと布で額をこすってから、ユーディーはその布をじっくりと眺めた。
「嘘、汚れてないじゃない」
「ああ、冗談だよ」
こらえきれずに、ヴィトスはくすくすと笑い出してしまう。
「ん〜、何笑ってるの?」
「いや、別に。気にしないでくれ」
ユーディーの珍妙な行動、ろれつの回らない口調、酔いの為にぼんやりとした表情。
全てがおかしくて、ヴィトスは笑いが止まらなくなってしまう。
「えー、何、何? 何が面白いの? あたしにも教えてよ」
自分の言動がヴィトスの笑いを誘っているとは気付かずに、片手で濡れた布を押さえ、
もう片方の手でヴィトスのマントをくいくいと引っ張る。

「いやいや、ただの思い出し笑いさ。気にしないでくれ」
ごまかそうと思ったが、
「あーっ、エッチだ、ヴィトスはエッチだ! 思い出し笑いする人はエッチなんだよ!」
訳の分からない言いがかりを付けられてしまう。
「思い出し笑いとすると、エッチなのかい? そんなの、聞いた事無いぞ」
「そうだもん。昔からそう決まってるもん」
ふん、と鼻を鳴らして、なぜかユーディーは得意そうな顔をする。
「ふうん、知らなかったなあ。でも、そうしたらユーディット。こんな人気のない場所で
 エッチな僕と一緒にいたら、身に危険があるんじゃないのかい?」
ヴィトスはユーディーに向かって、わぎわぎと手を握ったり開いたりして見せた。

「!」
口を一文字に結び、ヴィトスのマントから手を離すと、ユーディーは立ち上がって彼から
逃げようとする。
「逃げても無駄だよ、ユーディット」
ユーディーにつられるように、ヴィトスも立ち上がる。
「やっ! やーん、やーっ」
ヴィトスがくれた布が落ちるのもかまわず、ユーディーは石のサークルの上をよたよたとした
足取りで逃げ回った。
「ほらほら、ユーディット。もっと速く逃げないと追いついてしまうよ」
わざとユーディーから一歩遅れたペースで彼女を追い回す。

「あーん、やだー、やだーっ」
円を描くように、同じ場所をぐるぐると回るユーディー。
「そんな逃げ方じゃ、僕に捕まえて欲しいと言っているようなものだよ。……おっと」
「きゃっ」
調子に乗って酔ったユーディーを追い回しているうちに、彼女が地面につまずいてしまう。
「危ない」
倒れる前に大股で近付き、ユーディーの細い身体をぎゅっと抱きしめた。
「あ、あうぅ……」
ヴィトスの腕の中で、ユーディーが情けない声を出す。

「さあ、捕まえたよ、ユーディット」
にっこり笑って見せると、予想通りに怯えた顔をする。
「さて、どうやって料理してやろうかねえ」
息がかかる程に顔を近付け、思わせぶりに息を詰める。
「……」
そのまま黙っていると、ユーディーの瞳から一筋、涙の粒がこぼれ落ちた。
「ユーディット?」
顔を赤くしてくちびるを噛んだユーディーは、小さく身体を震わせている。
「……冗談だよ、すまなかった」
ユーディーを泣かせてしまった事に若干の良心の呵責を感じたヴィトスは、そっと彼女を
抱きしめていた手を離した。

「……」
「だからって、何も泣く事無いだろう」
ユーディーは何も口に出さず、濡れた目でヴィトスを睨んでいる。ぐすっ、と鼻をすすってから
ヴィトスから数歩離れ、そこにしゃがんで手に届く場所に生えていた草を数本まとめてむしった。
「ユーディット?」
時々濡れた頬を服の袖でこすりながら、ユーディーは石の床の上に戻ると草を一列に並べ始める。
「何してるんだ」
「境界線。エッチな人はこっちに入って来ちゃいけないの」
草で描いた線を指さす。それからまた新しい草をむしり、その線を太くする作業をもくもくと続ける。
「エッチじゃなかったら入ってもいいのかい? ……そうだな、実はさっき笑ったのは、
 思い出し笑いじゃないんだ。だから、僕はエッチじゃない。だったら、そっちに入っても
 かまわないよね?」

「じゃ、何で笑ったのか、教えて」
草を並べるだけでは飽きたらず、小さく咲いている白や黄色の花をつんで境界線を飾り始めた
ユーディーが頬をふくらませる。
「ただ、酔っぱらっている君が面白かったんだよ。だから笑ってしまったんだ」
今も充分面白いけれど、と口の中でつぶやく。
「あたし、酔ってないもん」
「酔ってるよ」
「酔ってないもん! 片足立ちだってできちゃうんだから、ほらっ……、きゃっ」
いきなり立ち上がって片方の足を上げたユーディーは、またもやバランスを崩し、倒れそうになる。
「全く」
ヴィトスは数歩踏みだして手を伸ばすと、倒れかけたユーディーを自分の胸へと抱き寄せる。

「危なっかしいな、君は。見ている分には面白いが、ケガをされると困る」
ユーディーの細く長い髪がふわりと揺れると、ほんのかすかな甘い香りが漂う。
「酔っぱらいなら酔っぱらいらしく、大人しく座って、酔いが覚めるのを待つといい」
口では座るようにと促しておきながら、ヴィトスはユーディーを抱いた手を離す事ができなかった。
細い身体、背中に回した手をくすぐるやわらかい髪。まだ涙で濡れている瞳、熱い吐息。
ユーディーもヴィトスの手を振りほどくような事はせず、彼の胸に頬を預けたまま、大人しくなる。
「ユーディット」
自分自身でも意識しなかったような優しい声が彼女の名前を呼ぶ。ユーディーは返事をしなかったが、
ヴィトスも特に彼女からの答えを求めてはいなかった。

ふらついたユーディーの身体を支える分だけの力しか入っていない腕。もう少しだけ強くしても、
抱きしめる腕に彼女を支える以外の目的が加わったとしても、彼女はこのままでいてくれるだろうか。
そんな事を考え、しかし実行はできずに、しばらくは二人のささやかな吐息と、風が木の葉や
草を揺らす静かな音だけが聞こえていた。
やがて、ユーディーが手を上げ、ヴィトスのマントをぎゅっとつかむ。
「ユーディット?」
「ヴィトスのマント、すべすべで冷たくて気持ちいいの」
「……」
先ほどユーディーにあげた、水を含ませた布。自分はその冷たい布の代用品としか思われて
いなかったのか、とヴィトスは気が抜けそうになる。

「だから、もうちょっとだけ、くっついててもいいかな?」
しかし、少しだけ目を上げたユーディーは、ヴィトスに甘えるような声を出す。
「あ、ああ。君の好きにすればいい」
「えへ。良かった」
嬉しそうに顔をぐりぐりとヴィトスの胸に擦り付け、マントを握っていた手を、届く限り彼の
背中に回す。ヴィトスは彼女を抱いている腕に少しだけ力を込めたが、ユーディーはそれを
振りほどく事はしなかった。
しばらくしてから、やっとユーディーが顔を離す。
「何だか、余計に熱くなっちゃったかも」
冷たい布に当てていた筈のユーディーの頬は、ほんのりと赤く染まっている。
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