● 囚われた時間の中で(1/2) ●

ユーディーは大きな出窓のすぐそばの椅子に座っている。私が窓にかかっているカーテンを
左右に開くと、午前中の日ざしが部屋いっぱいに広がった。
「ねえユーディー、今日もいい天気よ」
窓を開けると爽やかな風が舞い込んできて、ユーディーのやわらかな髪を揺らす。
「気持ちのいい風ね」
風に遊ばれる淡い銀紫の色の髪は、光に当たってきらきらと輝いている。
「ユーディーの髪って、本当にきれい」
ユーディーの頬に流れている一房の髪を指ですくう。さらさらとした髪に顔を寄せ、くちびるを
押し付けてそのなめらかさを感じてみる。

少しひんやりとした感触の髪は、かすかに甘やかな香りがする。新鮮なミルクを飲んだ後の
コップに残る、ふわりとした優しい香りにも似たその空気を胸一杯に吸い込む。
「きゃ」
突然強い風が入ってきて、それがユーディーと私の髪を乱した。
「いたずらな風ね」
ユーディーの長い髪の一部が、彼女の髪を束ねている紫色のリボンから逃げ出してしまう。
「髪、結い直してあげるね」
背をかがめ、もう一度ユーディーの髪にキスをしてから、私は化粧箱にブラシを取りに行った。

ブラシをいったん出窓の桟に置く。
「リボン、ほどくよ」
ユーディーの後ろに立ち、太いリボンをしゅるりとほどくと、髪がぱあっと広がった。
長い髪は椅子に座っていると床に届いてしまう程で、その端を手ですくうと、私は念入りに
ブラッシングを始める。
下の方、ほんの十数センチを少しずつブラシで解く。その場所のブラシ通りがなめらかになると、
もっと上の方まで進んでいく。ユーディーの髪にブラシをかけるのは時間がかかるけれど、
私は彼女の髪に触れていられるなら、ブラシだけを握って生きていく一生でも構わないと思った。

ゆっくり、ゆっくり、丁寧に。大好きなユーディーの髪を痛めたくないから。
「本当にきれいね、ユーディーの髪」
うすい銀紫色は、私の一番大好きな色。ユーディーの髪の色だから。
「こんな神秘的な色合い、きっとユーディーだから似合うんだね」
髪の先はほんのり朱色に染まっている。とても不思議なグラデーション。
髪がかかっている肌は陶器のようにしっとりと白くて、くちびるは恥じらうように控え目に
咲いている花びらのよう。
彼女を構成している色を見つめながら、私はすっかりブラシの通った髪を両手でゆったりとまとめる。
その髪を片手に移し、もう片方の手で持ったリボンでくるり、と結ぶ。

「最初は、大変だったのよ。なかなか上手に結べなくて」
つるりとしたしなやかなユーディーの髪は、リボンを巻いても滑って逃げていってしまう。
何とか髪を束ねても、蝶結びにした時、今度は左右の端の長さが違ってしまったりする。
「でも、あれから毎日ユーディーの髪を結っていたから、すっかり上手になったでしょう?」
結ぶ位置も、上過ぎず、下過ぎず。ゆるやかに、けれどリボンが落ちてしまう程ではない。
「できたよ」
リボンの左右も対象に、きれいに髪が整ったから、私はとても嬉しい気持ちになった。

「……本当に、いい天気ね」
私は、ブラシをしまいに行くついでに、ソファに置いてある大きなクッションを取ってきた。
それをユーディーの足元の床に置くと、ドレスの裾を広げながら腰を下ろす。
「こんな素敵な日に、ユーディーとピクニックへ出かけたら楽しいでしょうね」
ユーディーの白い手が置かれている膝に、私は頭を寄せる。ユーディーの膝を枕にしながら、
私は以前にユーディーと出かけたあちこちの街、いろんな場所を思い出す。
暑かったり、寒かったり。かんかん照りだったり、雨が降ったり。街道からはずれた空き地で
キャンプした事。あふれるような花畑で、私が焼いていったクッキーを食べた事。

「でも、ピクニックなんかへ行かなくても、お外に一歩も出なくても、私はユーディーと
 一緒にいられれば幸せよ」
そっとユーディーの手を握る。力の入らない手は、私の手を握り返す事もない。
「……大好きよ、ユーディー」
私はユーディーの顔を見上げる。
「ずっと、ずっと一緒にいようね」
ユーディーの手を彼女の膝に置き、私は立ち上がって彼女の顔をのぞき込む。
私の姿を映しはするけれど、私の姿を見ていない鳶色の瞳。ずっと開いたままなのに乾く事もなく、
澄んだ冷たい水をたたえた湖のようにきらきらしている。

「大好きよ」
私はユーディーの頬にくちびるを寄せる。呼吸もせず、汗もかかず、脈も打っていない身体は
少しだけ冷たい。
「ユーディーも、私の事好き?」
ユーディーの肩に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。
「私の事、好きだよね。嫌いになんかならないよね。ユーディーの時間を止めてしまった私を、
 ユーディーは許してくれるよね?」
尋ねても、返事は帰ってこない。分かっていても、それでも自分に言い聞かせるように何度も
繰り返してきた問い。

◆◇◆◇◆

「ユーディー、遊びに来たよっ!」
メッテルブルグにあったユーディーの工房のドアを勢いよく開けると、今まで見た事も
ないような、真剣な表情のユーディーが調合釜の前に立っていた。
「……ラステル」
涙で詰まった声で私の名を呼んだユーディーは、合わせた両手の上に乗せた丸い何かを差し出す。
「できた……、ついにできたのよ、『竜の砂時計』」
ユーディーは今にも泣き出してしまいそうで、それでもとっても嬉しそうで。
「これで、帰れる。あたし、元の世界に、二百年前に戻れるの」
その言葉を聞いた瞬間、私の目の前は真っ暗になった。

金属の枠の中の、黄色と青い砂の入ったガラス。
「それが、ユーディーが言ってた『竜の砂時計』なのね」
「うんっ! いやー、思えば長い道のりだったなあ」
眩しいくらいの笑顔を見せるユーディー。元の世界に帰るって事は、私とお別れするって事なのに。
「ラステルも本当にありがとう!」
(それなのに、何でそんな顔ができるの?)
この時初めて、吐き気がしてうずくまってしまいそうになる程の激しい憎悪、という物が
私の心の中にも沸き上がるんだって知った。
(……竜の、砂時計)
なんでこんな物が。なんでこんな物がここに存在しているんだろう。

砂時計のレシピが使えなければ。材料さえ見つからなければ。ユーディーがそれを完成させなければ。
ずっと願ってきた私のそんな祈りは、結局どこにも届かなかったらしい。
思いが力になるのなら、その時の私の暗く重い感情は砂時計に襲いかかり、砂時計を壊して
しまったに違いない。
けれども砂時計はずっと変わらずに、そのままだった。
「……いや」
「ラステル?」
「いや、いやっ! ユーディー、行っちゃいやあーっ!」
気が付くと私は、ぼろぼろと涙をこぼしながらユーディーに思い切り抱き付いていた。

「お願い、帰らないで。ユーディー、私の側からいなくならないで。ユーディーが
 いなくなるなんて、そんなのいやよっ!」
私が抱き付いた拍子に、ユーディーの手のひらから砂時計が落ちて壊れてしまえばいいのに。
そんな考えがちらりと頭の隅をよぎったけれど、砂時計はユーディーの片手に収まったままだった。
「……ラステル」
「いや、ユーディー、いやよ……」
「ごめんね、ラステル」
ユーディーの片手が私の頭をなでてくれる。でも、ユーディーのもう片方の手は砂時計に
束縛されている、そんな風に思ったら、とても耐えられなかった。

「でも、私はここにいちゃいけない人間だから。あたしはどうしても帰らなきゃならないの」
ユーディーがそんな事言うの、聞きたくない。
「ユーディー、ユーディーは、私の事が嫌いなの?」
「な、なんで? そんな事はないよ。ラステルの事、大好きだよ」
「だったら、帰らないで。ねえ、私の側にいてよ……」
呼吸をする度、声を出すたびに熱い空気の固まりが喉に引っかかって、痛くて、とても苦しい。
「ユーディーがいなくなったら、胸が張り裂けて死んでしまうわ。ユーディーがいない生活なんて
 考えられないの。ユーディー、お願い、考え直して、過去なんかに帰らないで」

「ラステル」
ユーディーの片手が、私の身体をぎゅっと抱きしめた。それから、ゆっくりと離れていく。
ねえ、そんな風に抱きしめてくれる時でも、砂時計を手放してはくれないの?
「大丈夫、ラステルは強い子だもん。あたしがいなくても、大丈夫」
私の頭をぽん、と叩いてから、ユーディーに抱き付いていた私の手を取り、離させる。
「やだよ……、ユーディーと、離れたくない……」
「あたしが過去に帰っても、二百年の時を越えても、あたし達はずっと友達。そうでしょう?」
二百年前の友達なんかいらない。二度と触れられない思い出になってしまうユーディーなんか
欲しくない。私が欲しいのは、私の望みは、ずっとユーディーが私の側にいてくれる事なの。

中途半端に差し出されたままの私の手の中から、ユーディーは一歩、後ずさった。
「だから、もう泣かないで。ね?」
涙でぼやけた私の目に映るユーディーの瞳も、濡れているように見える。
私からは離れたのに、砂時計は持ったまま。……ユーディーは、私よりも、竜の砂時計の方を
選んだんだ。
その時、私の頭の中に、ふっとユーディーの声がよみがえった。メッテルブルグの私のお部屋で
一緒にお茶を飲んだ時、ユーディーは砂時計の事を、『時間を止めたり、ちょっと戻したり、
進めたりするアイテム』だって教えてくれた。

「ラステル、何するの?」
考えるより先に、私はユーディーの砂時計に手を伸ばし、それを彼女から取り上げていた。
「ラステル!」
ユーディーを大好きだって気持ち、ユーディーが過去に帰らないで欲しいっていう思い、
ずっと、ずっと、ずっと。ずっとユーディーと一緒にいたいっていう強い願い。
「お願い、ユーディーの時間を止めて!」
ユーディーに対する全ての思いをこめて、この世の何よりも憎らしい砂時計を高くかかげる。
「だめ、ラステ……」
まばゆい光が部屋を満たし、それから、部屋の中にある机や椅子、壁や窓、全ての色、
ユーディーの声さえもが、ぐんにゃりと溶けるように歪んでいく。

「ずっと、私と一緒にいて、ユーディー」
「だめ……、錬金術士……じゃない、のに、……暴走……」
目の前の色が混ざり合い、マーブル模様が広がって、やがてゆっくりと鮮やかさを失っていく。
「ラステル……」
色彩が消え去ってしまった後は、白と黒と、灰色だけの世界。私の方へ手を伸ばしかけた
ユーディーの動きが緩慢になり、やがて、ぴたりと止まった。
激しい目眩がして、頭がガンガンと痛む。目の奥から頭に向かって、太い錐で貫かれたような
痛みが広がっていく。痛みに耐えきれずに床にしゃがみ込んでしまってから、手の中の砂時計が
燃えるように熱くなっているのを感じた。火傷しそうになって手を離したかったけれど、
それは私の皮膚にくっついてしまったようで、いくら手を振っても離せない。

どれぐらい、床に座り込んでいたのだろう。我慢できる程に頭痛が治まった私は、ゆっくりと
目を開けた。いつもの通り、普段と全く変わらない風景。
「ユーディー?」
その中で、ユーディーだけが動きを止めていた。
「ユーディー? ねえ、ユーディー、どうしたの?」
いくら呼んでも、私の声に応える事はない。
「ユーディー!」
砂時計を握りしめた手が、醜い魔女のかぎ爪のように固くこわばっている。私は反対の手で
砂時計から自分の指を引きはがす。金属の枠だけになってしまった砂時計を床に投げ捨て、
私はユーディーに駆け寄った。

「ユーディー」
私の方へと手を伸ばしたままの格好で、ユーディーは凍り付いてしまったように動かない。
おそるおそる、彼女の顔の前へ手を伸ばす。目の前で振ってみる。瞬きもしない。
「ねえ、ユーディー……」
キスができそうなくらいにユーディーに顔を近付けたけれど、鼻からも、唇からも、
空気が出入りしている様子はなかった。
「……あ」
微動だにしないユーディーはまるで美しい彫像のようで、もしかしたら肌さえも硬い石のように
なってしまったかもしれない、そう思ってユーディーの頬に触れてみると、そこは体温が
感じられないけれどやわらかで、少しだけほっとした。

「ユーディーの、時間が、止まってしまったのね」
一言一言区切るように口に出しても、私がユーディーに対してしてしまった行為を実感する事は
できなかった。
「私が、竜の砂時計で、ユーディーの時を止めてしまったのね」
もう一度、少しだけ言い直してみる。
がたがたと脚が、それから全身が震えて、私は床にへたり込んでしまった。
「ユ……、ディ、ユーディー……」
ぼろぼろと涙が流れる顔を両手で覆う。

「ごめ、ごめんなさい私、何て事を……」
私は、彼女にしてしまった事を、確かに悔いていた。後悔すると同時に、このまま二度と
ユーディーの時間が戻らなければいいと、心の中で強く、強く願っていた。

◆◇◆◇◆
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