● 015.一番好きな人へのプレゼント ●

「カリカリの実?」
「ええ。何でも、とってもめずらしい木の実だって言うんだけれど」
ユーディーの工房に来たラステルは、持っていた大きな袋の中から、ピンク色をした小さな
可愛らしい布の袋を取り出して見せた。
「ユーディー、そこにゼッテル敷いてくれる?」
「うん」
散らかっていたゼッテルを数枚つかみ、ぱたぱたと軽くはたいて机の上に広げる。ラステルは
袋の口を縛っていたヒモをゆるめると、きれいな紙の上に中身を開けた。
「へえ……」
ころころと数粒転がりだして来たのは、茶色く、表面にしわのある丸い木の実。ユーディーは
そのうちの一粒を指でつまむと、自分の顔に近付けてしげしげと眺めた。
「で、これ、どうするの?」
「お菓子を作るのよ」
「お菓子ぃ? 食べられるの?」
見た目あまり美味しそうには思えない。不思議そうな顔をしているユーディーに、ラステルは
にっこりと笑いかけた。
「殻を割って中身を使うのよ。胡桃だって外の殻は固いけれど、中に入ってる実はやわらかくて
 美味しいでしょう? あれと同じらしいわ」
「そっか、そんなら分かる」
ラステル手作りの胡桃入りのクッキーやケーキを何度も食べた事のあるユーディーは素直に頷いた。

「ところで、お菓子を作るって」
「あのね、ユーディーのキッチンを貸して欲しいんだけど、いいかしら」
「えっ! ここで作ってくれるの?」
ユーディーが少し驚いた声をあげるとラステルの表情がわずかに曇る。
「ダメかしら。ユーディーには焼きたてのケーキを食べて欲しかったんだけど……」
「ダメな訳ないじゃない! ラステルがここでケーキを焼いてくれるの?」
「できれば、そうさせてもらいたいんだけど」
少し興奮気味になるユーディーは、嬉しそうに手をぱたぱたと振った。
「えーっ、嬉しい! すごい嬉しいよ、あたし。うわぁ嬉しいなあ、ラステルがあたしの為に
 目の前でケーキ焼いてくれるなんて」
ふっと言葉を切り、首をかしげる。
「あたしの為……、って思っていいんだよね?」
ラステルはユーディーの目を真っ直ぐに見つめ、しっかりと頷いた。
「ええ。今日のお菓子はユーディーの為に……、どうしてもユーディーに食べてもらいたいの」
それから、少し恥ずかしそうに頬を染める。
「うんっ、食べちゃう、美味しくいただいちゃうよ。楽しみだなあ、そう言えばあたし、
 ラステルがお菓子作るとこって見るの初めてかも」
工房に訪ねてくる時や採取、ピクニックに行く時にラステルが手作りのお菓子を持って
来てくれた事はある。ラステルの家にお邪魔した時にも彼女の作ったお菓子をいただいた事は
あるが、作っている所を見た事はなかった。

「そう言われると少し緊張しちゃうわ。でも、頑張って作るから」
「うふふ、楽しみにしてるわね、ラステル」
いたずらっぽく笑ったユーディーはラステルにウィンクをして見せた。
「じゃあお台所借りるわね。材料は持ってきてあるの」
先ほどカリカリの実の小袋が入っていた大きな袋を机の上に乗せる。
「ええと、小麦粉と、バターと、玉子。ハチミツと、ミルク。バターと玉子はいい具合に
 常温に戻ってる筈だから」
順番に机の上に並べていく。
「ユーディー、ボウルと泡立て器ってある?」
「うん、あるよー」
言われた通りにいくつかのボウルと泡立て器を準備する。
「あ、手を洗うんならこっちに汲み置きの水があるよ」
「ありがとう」
これも家から持参して来たらしい淡いピンク色のエプロンを着けたラステルが手を洗っていると、
後ろからユーディーがのぞき込む。
「あたし、何かお手伝いする事ある?」
「いいわよ、ユーディーは座って休んでいてくれれば」
「あたしも手伝いたいよお」
きれいな手ぬぐいで手を拭いたラステルは、少し考え込む。
「じゃ、カリカリの実をすりつぶしてもらおうかしら」
「うんっ! 分かった。じゃ、あたしも手、洗うね」
ユーディーも手をきれいにする。

「どうすればいいのかな」
机に戻ってきたユーディーは、カリカリの実を指先でつついた。
「うんと、殻を割って中の実を出して、細かくすりつぶして欲しいの。殻、固いけど平気かしら」
「はーい。あたし、こういう作業って得意よ」
ユーディーは普段調合作業に使っているトンカチと乳鉢、金属製のヘラを持って来ると椅子に座った。
「えいっ」
こんこん、と殻を叩き、丁寧に割っていく。殻にひびが入るとそこにヘラをねじ込み、
くいっ、と回して上手に殻を開けた。
「ユーディー、上手ね」
もくもくと作業を続けるユーディーを見て、ラステルが感心する。
「いつも調合でやってる事と同じだもの。まかせて」
ラステルに誉められ、ユーディーは嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ、私はケーキの生地を作るわね」
ラステルはボウルに塩気のないバターを入れた。泡立て器で切る様にバターをほぐしていく。
「あ、後で、シャリオミルクからクリームを作ってもらいたいんだけど、作れるかしら?
 私、作り方とか分からないのだけれど」
「うん、遠心分離器があるから楽勝よ」
ふっと手を止め、ラステルを見上げる。
「でも、新鮮なミルクじゃないといいクリームできないかも。メッテルブルグの雑貨屋さんで
 売ってるミルクの質って、悪くはないけどあんまり良くもなかったような」
「大丈夫よ、お父様にお願いして、鮮度を保ったままでリサから直送してもらったの」
「ええっ? どうやって?」
常日頃からアイテムの劣化に頭を悩ませているユーディーは、飛びつく様に聞き返した。

「詳しい事は良く分からないの、ごめんなさい。でも確か、氷を使うって言っていたけれど」
「氷っ?」
一年中気候が温暖なフィンデン王国では、自然の氷を目にする事はほとんど無いと言ってもいい。
よほど高い山に登らなければ手に入る事のない氷を運ぶには、それなりの技術と人数、そして
驚く程の賃金がかかる。
「それを、おうちの冷蔵庫で冷やしておいたのよ」
一般の家庭では町中にある井戸を使って生活用水を確保しているが、ビハウゼン家ほどの
屋敷ともなると、自宅の敷地内に専用の井戸を引いている。しかも通常の井戸よりも深い所まで
掘って作る為、季節に関係なく温度の低い水を得る事ができる。
その冷たい水を利用して、ラステルの家にはアルテノルトの氷室とは比べものにならないものの、
食物をかなりの間新鮮に保管できる冷蔵庫を備え付けてあった。
「あうぅ。お金持ちの勝利なのねえ」
錬金術を駆使してどうこう、と言ったレベルでは話しにならない現実を突きつけられ、
ユーディーはがっくりと肩を落とした。
「ね、ねえ、ラステル。もしかしてさ、いつもあたしに作ってくれるお菓子って、ものすごく
 材料費かかってるんじゃない?」
話しながらカリカリの実の殻をむき、こげ茶色の中身を広げたゼッテルの上に放り投げる。
「えっ、そんな事はないわよ」
「本当? もしかして、この実もすっごい高いんじゃないの?」
「ええっと、そうでも、ないわよ……」
微妙にユーディーから目をそむける。普段あまりお金の事を気にしない筈のラステルのその
反応に、ユーディーは疑問を抱いた。

「嘘っ、高いでしょ」
上着の裾で手を拭きながら椅子から立ち上がったユーディーは小走りでラステルに近付いた。
やわらかくなったバターの付いた泡立て器を持っているラステルの肩に後ろから手をかけると、
「ほ〜ら、白状しなさいっ」
耳に顔を近付け、ふう、と息を吹きかける。
「きゃ」
びくん、と身をすくませるラステルの腰に手を回し、わきばらをこちょこちょとくすぐった。
「白状しないと、こうよ」
「やっ、やあんっ、ユーディー!」
泡立て器をボウルの中に手放したラステルは、ユーディーの手に自分の手を重ね、身をくねらせる。
「ほ〜らほら。言えないのかな? 言わないんだったら身体に聞いてもいいのよ」
ふふふ、と怪しく笑いながら、ラステルの敏感な耳をくちびるでやわらかく噛んだ。
「ああんっ、ダメ、ダメよ、ユーディー」
「あ……、そうか、ダメだよね、ふざけてゴメン。バター溶けちゃう」
「えっ」
ぱっ、と身を引いてしまったユーディーの方を、ラステルは名残惜しそうな目で振り返った。
「ごめんごめん、お菓子作りの邪魔しちゃって」
「えっ、もうやめてしまうの?」
「ん?」
「い、いえ、何でもないわ」
頬を真っ赤に染め、もごもごとつぶやいてからラステルは泡立て器を再び手に取る。

ラステルとじゃれ合っているうちに、ついさっき浮かんだ金銭についての疑問はすっかり頭から
消え去ってしまったらしいユーディーは椅子に戻り、今度はカリカリの実をすりつぶしにかかった。
乳鉢に実を入れ、乳棒で荒くつぶしていく。それから少しずつ、丁寧にすり混ぜる。
「んん〜、何かいい匂いがする」
こげ茶色の実が砕けるにつれ、香ばしい匂いがしてくる。
「ねえ、ちょっと舐めてみてもいい? いいよね?」
「あっ、ユーディー、それは」
やわらかくなったバターにハチミツを混ぜ込む作業に意識を取られていたラステルは、一瞬
制止の言葉が遅れてしまった。
「…………にが」
指先にこげ茶色の粉をすくい、それを口に含んだユーディーが涙目になる。
「苦い! 苦いよ、ラステルっ!」
立ち上がり、キッチンへと走ると慌てて口をゆすいで水を飲む。
「ユーディー、それは、そのままだととても苦いから、ミルクとお砂糖を混ぜなきゃだめなのよ」
渋い顔をして戻ってきたユーディーに、申し訳なさそうに説明した。
「ううーっ。こんな苦いので、本当にお菓子作れるの?」
「……多分。私も実際に作った事はないから自信はないんだけど、作れる筈なの。でも、もし
 ユーディーが食べたくないなら無理にとは言わないけれど」
だんだんと声が小さくなる
「んんー、ラステルがそう言うんだったら、きっと美味しいお菓子になるんだろうね」
自分の言葉に、うん、と頷いたユーディーは、すぐに椅子には座らずにラステルの隣りに立った。

「つまみ食いしちゃってゴメンね。反省したから口直しにそれ舐めさせて」
ハチミツと一緒にやわらかくホイップされてクリーム状になったバターを指さす。
「もう、ユーディーったら。つまみ食いを反省したのに、またつまみ食い?」
「うん」
あまりに素直な返事に、ラステルは小さく微笑んだ。
「泡立て器……のままじゃダメね。スプーンか何かを持ってくるわ」
「ラステルの指でいいよ、舐めさせて」
「ええっ?」
「あたしの指は今、ちょっと苦くなってるからね。ラステルの指はきれいでしょ」
甘えたような表情のユーディーの前で、ラステルの頬が熱くなってしまう。
「えと……、あの、はい、どうぞ」
以前、森の中に採取に行った時、ユーディーにハチミツを舐めさせてもらった事をぼんやりと
思い出したラステルの頬はますます赤くなる。
ラステルは泡立て器に付いたバターを指先ですくうと、その指をユーディーの口元に持っていった。
「わーい」
ためらいもせず、ユーディーはその指をぱくりとくわえ込む。
「甘くて美味しい〜。ラステルも舐めてみれば?」
両手で頬を包み、ユーディーは口で溶けるバターの風味とハチミツの甘みを楽しんでいる。
「私は……、ええ、そうね」
恥ずかしそうにうつむくと、ラステルはユーディーがしゃぶった指で少しだけバターをすくい、
それをおずおずと自分のくちびるに運ぶ。

「……美味しい。ものすごく、幸せな味がするわ」
「分かる分かる。優しい甘さって、幸せ〜って感じするよね」
「うん、甘い、よね」
くちびるからじわりと広がる、胸が痛くなる様な切ない熱と幸福感。ラステルは目をつぶると、
大きく深呼吸してその幸せな気持ちを身体の奥に閉じこめた。
「さあ、ケーキを作ってしまいましょう……、あっ」
ぱっちりと目を開けたラステルは、ユーディーが背をかがめて、こっそりとボウルに自分の
指を差し入れようとしている所を見つけた。
「こらっ、ダメでしょ、ユーディーったら」
「あっ、バレちゃった」
もっとバターを舐めたかったと言うよりは、ラステルに怒られる事を期待してわざといたずらを
したユーディーは、楽しそうに笑いながら自分の席に戻った。
それからカリカリの実をすりつぶす作業を続け、
「こんなもんでいいのかなあ」
パウダー状になったそれをラステルに見せる。
「すごいわ、ユーディー。どうもありがとう!」
乳鉢を傾けると、中で細やかな砂状になったカリカリの実がきれいに流れていく。
「じゃ、これを少しずつバターの中に入れてくれるかしら」
「うん」
乳鉢を持ったユーディーは、ラステルにぴったりとくっつくように寄り添う。ラステルが
バターをゆっくりかき混ぜるのに合わせ、乳棒で少しずつカリカリのパウダーを落とす。

「全部入れちゃっていいの?」
「ううん、四分の一くらい残しておいて。後は飾りのクリームに混ぜるのよ」
「はーい」
さらさらとしたカリカリの粉が、徐々にバターに混じっていく。
「きれーい」
たっぷりと空気を含んだバターの淡い黄色と、カリカリの黒に近いこげ茶色がマーブル模様を描き、
それが徐々にとけ合ってきれいな茶色に変わっていく。
「うう、美味しそう。でもやっぱり苦いのかな」
「少しだけなら舐めてもいいわよ、ユーディー」
「え」
先ほど口に入れた強烈な苦みを思い出し、ユーディーは少し嫌な顔をした。
「バターとハチミツの甘みが入ったから、だいぶ違うと思うんだけれど」
ラステルは指の先をバターに付け、それを少しすくって見せる。
「あ、でも無理にとは言わないわ。私が先に味見を……」
「ううん、ラステルがそう言うんなら」
おそるおそる顔を近付け、目を閉じてラステルの指をぺろり、と舐めた。
「……嘘」
目を開け、ぱちぱちとまばたきをする。口元に手を当て、驚いたようにラステルを見つめる。
「ユーディー? ごめんなさい、やっぱり苦かったの?」
ぶんぶん、と首を左右に振り、ボウルの中身に目をやり、それからまたラステルに視線を戻す。

「すごい。どうして? さっきはあんなに苦かったのに」
「あまり苦くなかったの?」
「うん、全然苦くないよ! あっ、ほろ苦いって言うの? ちょっぴりあるけど、香ばしくて、
 優しい甘さで、とろけるようで……こんな味、食べた事ないよ!」
興奮気味になっているユーディーに続いて、ラステルもカリカリバターの味見をする。
不愉快な苦みはバターの脂肪分に包み込まれる事によってすっかり和らいで、カリカリの実
本来の深みのある味が口の中で溶けていく。
「……美味しいわ」
「うん、美味しい」
二人はお互いを見つめ、うん、と頷き合う。
「どんなお菓子ができるんだろう。楽しみだねえ〜」
「焼くと香ばしさが増すらしいの。……あら? カリカリより、玉子を混ぜるのが先だったかしら」
小さなボウルの上で玉子を割り、それを泡立て器でかき混ぜる。
「あ、ねえ、黄身と白身分けるの、やらないの? あのほら、殻使ってやるやつ」
両手に玉子の殻を持つ真似をして、左右にくいくい、と傾ける。
「ええ、このケーキは玉子を全部混ぜてしまうのよ」
白身のトロトロを切るようにして、黄色と透明が混ざると、それを先ほどのカリカリバターの
ボウルに流し入れる。
「ふうん」

「こんなものね。次は小麦粉を振り入れて……、ユーディー、またお手伝いしてもらえるかしら」
「うん。どうすればいいの?」
「ふるいを持ってきているから、そのボウルに小麦粉を振り入れて」
空のボウルを指さす。
「そうしたらもう一度、ふるいにかけて。それをまたふるいに入れて、私が混ぜているバターの
 中に入れて欲しいの」
「めんどくさいねえ。何でそんなに何回もふるうの?」
そう言いつつ、ユーディーは言われた通りに準備をする。
「小麦粉にたっぷり空気を含ませるのよ。そうすると、ふんわりとしたケーキになるの」
「なるほどねえ、ふんわりケーキにするには大変な手間が必要なのね。じゃ、めんどうとか
 言ってられないや」
ラステルの話しに納得したユーディーは、てきぱきと粉をふるい始める。
「ええと、こんなもんかな。じゃ、これをラステルのボウルに」
「ええ、お願い」
泡立て器から木じゃくしに持ち替えたラステルは、ユーディーが粉を落とすのを待って、
手早くサックリと混ぜ合わせる。
粉を全て落とし終わると、ボウルの中身混ぜ合わせているラステルの手元を見ながら、ユーディーは
感心したように一人で頷いている。

「何? ユーディー、そんなに見られると、照れてしまうわ」
「ん、だって。見てるの面白いんだもん。面白いって言うか……」
ちらり、とラステルを見る。
「何か、ラステルがお菓子作ってるの見てるのって、とっても嬉しいの」
「嬉しいの?」
「嬉しいって言うかね、幸せって言うか」
それから、本当に幸せそうな笑みを浮かべる。
「しかも、あたしの為に作ってくれてるんだもんね。嬉しくない訳ないもん」
「良かった。ユーディーが喜んでくれるなら、私も嬉しいわ」
ユーディーは、少し甘えたような仕草でラステルにそっと抱き付いた。
「何て言うか……、新妻にお食事を作ってもらう新婚さんって、こんな感じなのかなって」
そして、いきなりオヤジくさい事を言い始める。
「え。新妻? 新婚、さん?」
「うん、愛しい妻が、自分の為にお食事を作ってくれるの」
「い、愛しい……、妻。妻って、もしかして私?」
顔を真っ赤にして、ラステルはボウルの中身をごねごねとこね回す。
「他に誰がいるのよ。あたしがお嫁さんをもらうならラステルだって、そう決めてるんだから。
 前にも言ったじゃない、ラステルをお嫁さんにしたいって」

「あ、うん、私も、お嫁さんになるならユーディーのお嫁さんがいいな……」
「うふふっ。あたし達って、両想いだね」
「ええ。両想い、ね」
にっこりと笑うユーディーの前で、ラステルは照れて顔が上げられなくなってしまう。
「あっ」
それから、やっと気付いたように、混ぜすぎてしまったボウルの中身に目をやった。
「大変。少し、粘りが出すぎてしまったみたい」
小麦粉は水分を吸って膨らみ、混ぜすぎてねっとりと重い生地になってしまったように見える。
「あ、ごめん。あたしが邪魔しちゃったからだ」
「ううん、平気。じゃ、すぐオーブンに……、ああっ!」
そこで、ラステルは重要な事に今更ながら気が付いた。
「ラステル?」
「オーブン! オーブンを温めておくのを忘れたわ。ユーディー、お願いできる?」
「うん、すぐに準備するっ」
普段、家でお菓子を作る時は、お料理係りのメイドにこまごました仕事をやってもらっていた。
ユーディーとじゃれ合って気持ちが高揚していた事もあり、ケーキを焼くのに必要な手順を
すっかり忘れてしまった。
「大変」
四角いケーキ型に生地を流し入れようとしたが、ボウルにしっかりと貼り付いた生地は、上手く
型に落ちていってくれない。仕方なく木じゃくしで生地を寄せ集め、それを型に落とす。

「ええっと、火は入れたけど。こんなもんでいいのかな」
「ありがとう」
生地の入ったケーキ型を鉄板に置き、両手にミトンをはめてそれをオーブンへ入れる。
「余熱って、無くても大丈夫かしら」
オーブンのフタを閉め、ミトンを外したラステルは、不安そうに首をかしげた。
「うーん、あたしあんまりオーブンって使った事ないから、分からないや。そもそもケーキ
 焼いた事無いし」
錬金術でシチューを作ったり、デニッシュを焼いたりする事はあったが、ユーディーは元から
部屋に備え付けてあったオーブンをあまり使った事がなかった。
「私も、余熱無しでケーキを焼いた事がないから良く分からないけれど」
何となく、不安感がこみ上げて来る。
「取りあえずケーキはこのままにして、次は生クリームの準備をお願いできるかしら」
「じゃ、遠心分離器ね」
ユーディーは機材を入れてある箱の中から、ハンドルの付いた丸い機械を取り出してくる。
「これに、シャリオミルクを入れて」
ぱかっ、とフタを開け、ラステルが持ってきた新鮮なミルクを流し込む。フタを閉め、
「じゃ、頑張るね」
左手で本体をがっちりと押さえ、ハンドルを回し始めた。
「ふうん、そうやってクリームを作るのね」
「うん」
短く答え、ミルクを分離させる作業に熱中するユーディー。何となく邪魔をしてはいけないような
気がして、ラステルは黙ったままユーディーを見守っていた。

「……ふう」
やがて、額に汗を浮かべたユーディーがため息を吐く。
「こんなもんかなあ」
慎重にフタを外すと、分離器に入れる前よりもミルクの色が濃くなったように見える。
「それを、どうするの?」
「上に浮いてる部分が生クリームなの。油分が多い生クリームは、水よりも軽いから上に浮くのね」
ユーディーは分離した上の部分を手早くレードルですくい、ボウルに入れた。
「ふうん」
何となく曖昧な返事をしながら、ラステルはユーディーの手元を見つめる。
「で、クリームを取り終わった後の水分は、無脂肪牛乳。サッパリしてて飲みやすいんだ」
クリーム部分を入れたボウルをラステルに渡す。
「これ、泡立て器で混ぜればふわふわのクリームになる筈よ」
「クリームって、こうやって作るのね」
感心したように、ラステルは何度も頷いた。
「すごい。ユーディーって、何でもできるのね」
「何でも、って訳じゃないよ」
そう言いつつ、ラステルに誉められると顔がゆるんでしまう。
「じゃあ、これをホイップして」
受け取った生クリームを、泡立て器で混ぜ始める。
「……」
「……」
しゃかしゃか、と軽い音だけが、しばらく響いていた。

「……」
「……固まらないねえ」
「ええ、おかしいわね」
しばらく混ぜていたが、クリームは若干もったりとしてきたものの、ケーキの飾り付けに
使えるような固いホイップにはならない。
「何だか、少し疲れてしまったかも」
ずっと腕を動かしていた為、ラステルは弱音を吐いてしまう。
「あ、あたしやろうか?」
「でも」
「まあまあ」
ユーディーはボウルと泡立て器を受け取ると、クリームを混ぜ始めた。
「……うーん」
やはりしばらく泡立て作業を続けていたが、固まりの良くないクリームに首をかしげる。
「分離が足りなかったのかな。水分が残っちゃってるのかなあ」
「どうなのかしら……、あっ、そろそろケーキはいい頃かしら?」
「そうかも。何だかさっきから、いい香りがしてきてるし」
オーブンから立ち上ってくる香ばしい匂いに、ユーディーはうっとりと目を細める。
「ちょっと様子を見てみるわ。本当は、あまりオーブンは開けてはいけないのだけれど」
ラステルはミトンをはめ、オーブンの扉をそっと開ける。
「あ、もっといい香りがする」
茶色く焼けているケーキの中心に、ラステルは細い木の串を刺し、そしてゆっくりと引き抜いた。

「まだ中が焼けていないみたい。外はもういいように見えるんだけど」
串には、まだ火の通っていない生地がべったりとこびり付いている。
「ふうん。難しいんだねえ」
ユーディーはラステルの後ろからオーブンをのぞき込む。ラステルはオーブンの扉を閉めると
ミトンを外した。
「カリカリの実を入れると、焦げやすくなるらしいのだけれど。まだ大丈夫みたい」
「うん」
「焼き上がるまで、もう少しクリームを泡立ててみるわ。固く泡立ったら、カリカリパウダーを
 混ぜて、飾り付けをしなくちゃ」
「そうだね、あたしも手伝う」
クリームを飾り付けるのはケーキが冷めてから、と言う事を全く失念している二人だった。
「もしかして、クリームの温度が上がってしまったのかしら」
「うーん、どうなんだろうね」
何だか混ぜているうちに、クリームがもたもたして来たような気がする。
「もう一度、新しいミルクを持ってきた方がいいのかしら」
「あ、でも、ケーキにとろりとしたクリームを乗せて食べるのも美味しくない?」
ああでもない、こうでもないと話しに夢中になってしまう。しばらく時間が経ってから、
何となく不穏な匂いが漂っているのに気付く。
「ねえ、何だか焦げ臭くないかしら?」
「そうかなあ、あたしは別に気にならないけど」
「もう一度、様子を見てみた方がいいのかしら。でも、何度もオーブンを開けてもいけないし」

二人で相談しているうちに、焦げ臭い匂いが強くなってくる。
「ラステル、やっぱりヤバいような気がしてきた」
「ええ、オーブン、開けてみるわ」
ラステルはミトンをはめ、不安そうな顔でオーブンを開ける。
「あっ」
「ああーっ!」
先ほどの食欲を誘う美味しそうな茶色ではなく、ケーキはすっかり黒く焦げてしまっていた。
表面は固くひび割れ、そこから好ましいとは言えない臭いのする白い煙が立ち上っている。
「大変、どうしよう」
手を伸ばそうとするが、ラステルは一瞬戸惑ってしまう。
「ラステル、気を付けて」
「ユーディー、鍋敷きか何かをお願い」
ラステルはミトンをはめた手で、慎重に熱い鉄板をつかむ。
「あ、じゃあこれ。この上に」
慌てたユーディーはそこいらに投げ出してあった、厚みのある大きな本をテーブルに置く。
「いいよ、ラステル」
ミトン越しにも伝わってくる熱をこらえながら、ラステルはその本の上に鉄板を置いた。
「だいじょぶ? 熱くなかった?」
「ええ、私は平気、でも」
ゆっくりとミトンを外す。鉄板の上のケーキ型、その中で焦げた臭いを放っている物体を
見て、ラステルは次の言葉を継げなかった。

「おかしいねえ、ついさっきまでは美味しそうだったのに。あっ、今でも美味しそうだけどねえ」
どう見ても炭の固まりにしか見えないそれを指して、ユーディーは無理に微笑んだ。
「あー……、えっと。そうだ、周りのちょっと焦げてる所を削っちゃえば? きっと中は平気よ」
悲しそうに黙り込んでしまったラステルを勇気づけるように、わざと元気な声を出す。
「あたし、ナイフ持ってくるね」
ユーディーは急ぎ足でキッチンに行くと、果物ナイフを持って帰ってくる。
「ほらラステル、こうすれば」
焦げてしまったケーキにナイフを入れると、ゴリッ、と固い音がして、炭のクズが散った。
それにもめげずにナイフを進めていくと、まだ焼き固められていない液体がどろりとあふれ出た。
「あっ、そうだ。このさ、まだ焼けてない所を集めてもう一度焼き直せば」
「もうだめよ。失敗してしまった……、もの……」
耐えきれなくなったラステルの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。
「ごめ……、ごめんなさい、ユーディー」
「ラステル、ラステル、泣かないで、それにラステルが謝る事なんて無いから、ねっ」
ナイフを放り出すように置くと、ユーディーは震えているラステルを抱きしめる。
「私、ユーディーに、美味しいケーキを食べてもらいたかったの」
あふれる涙で言葉が詰まる。
「こんなに焦げて、中も……、このケーキ、カリカリのケーキはユーディーにどうしても
 食べてもらいたかったの、それなのに」

「あたし、食べるよ! 平気だって」
ユーディーは元気な声で言い切ると、そっとラステルを抱いていた手を離す。
「ユーディー? 待って」
ラステルが止める間もなく、先ほどナイフで切った焦げた固まりに手を伸ばして、それを
口に放り込んだ。
「……」
一瞬難しい顔をしたが、口元を手で押さえ、もぐもぐとそれを噛み砕き、無理に飲み下す。
「ユーディー」
まだ熱かったのと、信じられないくらいに固いのと、苦いのと。思わず顔に出てしまいそうになる
不快感をぐっとこらえ、ユーディーは引きつった笑顔を浮かべた。
「う……、うん、美味しい。やっぱりラステルの作ったケーキね、美味しいよ」
「嘘」
「嘘じゃないって、あはは……」
笑うユーディーの目元には、涙が滲んでいる。
「ユーディー、もう、いいの」
「や、食べるよ。だって、ラステルが作ってくれたケーキだもの」
もう一度、ユーディーは焦げたケーキに手を伸ばした。
「いくらでも食べちゃうよ、あたし」
ケーキのかけらを取り、また口に運ぼうとする。
「だめ」
しかし、ラステルはユーディーの手を押さえると、その固まりに自分の顔を近付けた。

「ラステル」
ぱくり、とケーキを食べるラステル。
「……」
途端に顔をしかめ、口元を押さえる。
「ラステル、大丈夫? お水、お水持ってこようか?」
ふるふる、と首を横に振り、ラステルはごくん、と口の中の物を飲み込んだ。
「……苦い」
「ああ、うん、そうね。ちょっとね」
「美味しくない」
「……ええと、あたしはそうでもないよ」
首をかしげ、ユーディーの目を見つめる。
「ユーディー、嘘言っちゃだめ。失敗したケーキは、美味しくないもの」
ユーディーの手を離し、ラステルはごしごしと自分の濡れた目元をこすった。
「だって、嘘じゃないもん。まあ、ちょっと焦げちゃったにしても」
どう見ても”ちょっと”では済まされない焦げたケーキに、ちらりと目をやった。
「このケーキにはラステルの気持ちが入ってるから。あたし、その気持ちが嬉しいから、
 ラステルの気持ちいっぱい受け取ったから、だから美味しいんだもん」
「……ユーディー」
はっきりと言い切ったユーディーに、ラステルは全身で抱き付いた。

「好き。ユーディー、大好き」
「ラ、ラステル?」
ユーディーの背中に腕を回し、彼女の首筋に自分の頬を押し付ける。
「大好き。ユーディー、私、ユーディーの事が大好き」
「うん、あたしもラステルの事が大好きだよ」
そう言ってユーディーもラステルをきつく抱きしめる。
「私の気持ち、ユーディーに伝わったのかな」
「うん、伝わってるよ。あたしの気持ちもラステルに伝わってるよね?」
「ええ」
ラステルはしっかりと頷いた。
「……あのね。遠くの国の話しなんだけどね。この時期に、自分の一番好きな人に、
 カリカリの実で作ったお菓子を渡す風習があるんですって」
抱き合ったままの格好で、ラステルが話し始める。
「その話しを聞いて、私どうしてもユーディーに、カリカリのお菓子を食べてもらいたいって
 思ったの。だって、ユーディーは私の一番大好きな、一番大切な人だから」
「そうだったんだ……」
ラステルの背中に回した手に、少し力が入る。
「でも、失敗してしまったけれど、ユーディーが食べてくれて嬉しかった。私の気持ち、
 受け取ってくれて嬉しかった」
ほんの少し顔を傾け、ラステルはユーディーの頬にそっと口づける。

「でも、本当にごめんなさい。本当に苦かったわね」
「あー、そうかも。でも、ほんのちょっとだけね」
まだユーディーはラステルの失敗をかばおうとする。
「もう、ユーディーったら。そんなに気をつかってくれなくてもいいのよ」
まだ涙の滲む瞳で、それでもラステルは笑顔を浮かべた。
「カリカリの実はまた手に入れればいいんですもの。その時こそはユーディーに美味しい
 お菓子を食べてもらえるように頑張るわ」
「うん、頑張ってね! あたし、期待してるよ」
お互いに見つめ合い、しっかりと頷き合う。
「あ、ラステル」
ふいに、ユーディーがラステルの頬に顔を寄せた。
「少し、付いてる」
「えっ?」
先ほど涙をこすった時に、手に付いていたカリカリの生地が頬に移ってしまったらしい。
ユーディーは舌を小さく尖らせ、ラステルの頬に付いているこげ茶色を舐め取った。
「きゃっ」
「くすぐったい?」
「ええ」
それでも恥ずかしそうにラステルは微笑んだ。

焦げたケーキは心の中で謝りながら処分する事にした。とにかくきつい臭いが充満する
部屋の空気をどうにかしようと、ラステルは窓を開ける。
「ドアも開けちゃっていいよね……、あ」
一瞬開きかけたドアの向こう、階段から誰かが上ってくる。
「ラステル、ちょっと待っててね」
その人物が誰かを認識したユーディーはそれだけ言って素早く部屋の外へ出て、ドアを閉めた。
「やあ、ユーディット」
「今、取り込み中なの。用がなければ帰ってくれる?」
強い口調で言うと、ヴィトスはわざと驚いた顔をする。
「用って、ちょっとね。ここいらからとても甘い香りが漂って来たから、てっきり君が
 また何かやらかしたんだろうと思って」
ユーディーは嫌みを言いに来たらしいヴィトスの服の袖をつかむと、顔を近付けて声を潜める。
「失敗したのはあたしじゃないの。あたしならいいけど、ラステルの事馬鹿にしたら
 許さないからね」
思い切りすごんで見せたつもりだったが、可愛らしいユーディーが顔をしかめても
やっぱり可愛いだけだった。
「ああ、そうなんだ。残念だな、せっかく君をからかうチャンスだと思ってわざわざ
 ここまで足を運んだのに」

あからさまに落胆した様子を見せるヴィトスに、
「何よ、そんなにあたしをからかいたい訳? あたしだってあんたの相手するほど暇じゃ
 ないんだからねーだっ」
べえ、と舌を出して見せる。
「ユーディー、どうしたの? ……あっ、ヴィトスさん」
二人の話し声が気になったのか、ラステルがドアを開けた。
「あーっ、ラステル、ヴィトスの事は気にしないで。すぐ帰るから」
「何で君が僕の行動を仕切るんだい?」
「別にいいじゃない。はいはい、ヴィトスさようなら。またね〜」
両手でヴィトスを突き飛ばし、さっと部屋に入ってばたんとドアを閉める。
「……ヴィトスさん、もしかして焦げた臭いを気にして来たのかしら」
少し悲しい顔をするラステルに、
「ううん、ただの通りすがりよ。気にする事ないわ」
ユーディーはにっこりと笑顔を見せた。わざわざ二階にある部屋の前を通りすがる訳も
無いだろうが、ユーディーなりの心遣いだった。
「あっ、それでねユーディー。カリカリの粉が少し残っていたでしょう。もう一度ミルクを
 持ってきて生クリームを作って、それに混ぜて」
デコレーション用に取っておいた為に無事だったカリカリの粉を指さす。
「ユーディーが焼いたデニッシュに付けて食べるのはどうかしらって思ったんだけれど」

「あっ、それはいいね! それ美味しそうだよ。食料品屋さんにあたしが作ったデニッシュ、
 複製お願いしてあるから」
余計な従属を加えられないように、程良い効果を付けまくったデニッシュ。
「ラステルの家に行ってミルクを取ってきて、帰りにデニッシュ買って帰って来ようよ」
「ええ。そうしましょう」
ラステルが笑ってくれると、ユーディーはとても嬉しかった。
「そう言えば、お店にはレヘルンクリームも置いてあるんだよね。レヘルンクリームも
 買って、カリカリを少しかけてみるのはどう?」
「もう、ユーディーったら欲張りすぎよ」
二人はしっかりと手を繋いで部屋を出た。


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